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サンディエゴ教会あかし集  1994年12月

=第1号= 目  次

教えてみよ主の恵み ………………松岡 はまき
すべての事について感謝しなさい ………………島 章
五十五才のバプテスマ ………………堀井 菊枝
七十年の信仰生活 ………………野村 ふじ
困難の中から ………………古川 福恵
イエス様と共に ………………佐瀬 徳子
いつも共にいて下さる神様 ………………島 正子
神には何でも出来る ………………ケンプトンまつ
主をみあげて ………………ウイリアムス静江
最大の罪を知って ………………ラッド とし子
信仰に堅く立って ………………グレイまつ子
主は、私の光、私の救い ………………アバロス和子
人生最大の喜び ………………吉田佐智子
光の中へ ………………スミス ヒデ子
真実の神を知って ………………比佐 瑞子
イエスさまに従って ………………マーシャル初音
あなたの人生を共に歩んでくださるお方 ………………牧師 中尾 邦三


教えてみよ主の恵み

松岡 はまき

 私がクリスチャンになりましたのは、子供達が先に主に導びかれたからで、私もそれに引かれて同じ信仰を持つようになりました。戦争が始まり、私共は、サンタアニタの集会場に収容されました。そこから勉強の為、次男がニューヨークへ出所しました。続いて長男も又同じニューヨークへ生きました。そして彼等からの手紙に今キリスト教会の寄宿舎に泊りサンデーの礼拝には何時も出席すると書いてありましたのでびっくりしました。戦前子供達はロングビーチの仏教の日本語学園に通っておりましたので、卒業してからも仏教青年会員としていろいろ活動しておりました。それがクリスチャンになったと知っておどろきましたが、教会の中に住みサンデー礼拝に出席するようでは横道にそれるような事もあるまいと思い安心しました。それから私共もあちらこちらのキャンプに移され、アーカンサスのローワのキャンプに居ます時、長男がニューヨークからバケーションに来ました。そして帰るとき、今アパートを探しているから、見つかったらすぐ知らせるからママ達も早く出て来なさいと。それを聞いて私達の出所先もニューヨークだと思い、ニューヨークへ行ったら子供達と同じ信仰を持ちたいと思い主人に話ましたら、それがいいそうしようと言ってくれましたので、その時、私の心はもう決まりました。

 丁度四五年五月初め、アパートが見つかったからと電報と手紙が来ましたので、間もなく三年半のキャンプ生活を切り上げて五月二三日ニューヨークへ着きました。間もなく、メソジスト教会の婦人会から歓迎茶話会を催すから来るようにと御案内頂き息子に連れられて出席しました。そして次のサンデーから礼拝に出席して聖書と賛美歌を買いました。教会に行った事もないのに、賛美歌はお友達から習って四つは歌っておりましたが、聖書は初めてで創世記から読み始めましたが何の事やらさっぱり分かりませんでしたのであまり読まず、ただ教会でお説教聞くだけでした。欠かさず礼拝に出席してみ信仰は少しも進まず、名ばかりのクリスチャンで恥ずかしい次第でした。

 ところがシカゴに居りました次男から七月二四日にベビーが生まれるから「ママ、ヘルプに来て欲しい」と手紙が来ましたので、二、三日早くシカゴへ行きました。そして二四日になったから嫁が朝からお腹が痛いと言い、息子の仕事を休んでおりましたから、ドクターに電話して、午後二人共病院へいきました。行く時、「生まれたらすぐ知らせなさい」たは言いましたが、何分初産ですから時間が長引くと思い、夜中か翌朝までには生まれると思っていましたが、昼になっても夜になっても病院から電話がかからず、どうしたのかと心配して神様に無事に安産でありますようにと祈り続けて居ました。二五日の夕方、息子が帰って、ドクターが「今晩十時頃までに生まれるだろう」言われたと言って、息子は又病院へ行きました。私は十時、十時とタイムばかり見て電話のベルの鳴るのばかり待っていました。もう前日から二日も待って待ちくたびれて眠くなり、ベッドの上に横になって居ましたら、何者か両手を合わせた位の幅の広さで私の頭から顔、胸と次々とひどくおさえて足の先からすっと抜けました。それでびっくりして目を覚まして、今のは何だっただろうと考え、もしか泥棒が入っておさえたのではないかと思ったら恐ろしくなりました。今何時かしらと思って時計を見ましたら三時十八分、あっこんなタイムになったか、それでは息子は帰っているでしょうと思い、彼のルームに行って見たがまだ帰っていない。一体どうしたのでしょうと心配になり、もう居ても立っても居られなくなり、ウインドウの脇のチェアに腰かけて外を見ていましたらやっと息子が帰って来るのが分かりましたので、階段を上がってくるのを待ち構え「ベビー生まれたの」「ヤー、ボーイが生まれた。」そしてべビーもフサ(嫁)も元気かと尋ねたら二人共オーライだと聞いてやっと安心しました。それから何時に生まれたのと尋ねたら、三時十五分と聞いてハッと思いました。先程の何者かに起こされたのは神様であったかと思ったら涙が出て、私のルームへ行ってひざまずいて心から、感謝申し上げました。そして今迄の不信仰をお詫びしました。私の祈りに依って神様は嫁の産室へ行ってベビーが生まれのを見ていて下さり、無事に生まれたので、早速私を起こして知らせて下さったのだと思い、あの時の感激を今でも忘れられません。そして私達の眼のは見えないけれど、何時も共に居て下さる事を確信しました。「祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」(マタイ二一章二二節)

 一九五一年主人が召天しましたので、翌五二年九月当サンディエゴの娘大鷲宅へ参りました。ここの孫達がホーリネス教会のサンデースクールへ、行っておりましたので、私も一緒に礼拝に出席するようになりました。当時は八尋先生でした。愛のこもった親切な先生で度々訪問して下さいました。そして会員の皆様も暖かく迎えて下さいましたので、間もなく当教会に転会しました。その後、八尋先生御召天後は、常石先生、戸田先生、細見先生、吹上先生と代々の先生方の御指導に依り、皆様方と共に同じ信仰を守り続けて今日に至っております。帰りには何時も根無兄姉や堀井兄姉に送って頂き、感謝して居ります。

 私も在米六二年余りになり、その間には大病ではありませんが、色々の病気をしました。或る時は眼底出血で左の眼が見えなくなり、全治まで三ヶ月かかりました。一番悩まされたのは蓄膿症に依る鼻の中に鼻茸が出来る病気で、ニューヨークでも二度手術して、三度目には有名な専門のドクターに診て貰い、「私の都合の良い時電話しなさいそれ迄この薬を朝夕一、二滴ずつ入れなさい」と言われました。それでそのようにして三週間位してからオフィスに行きましたら、診察の結果もう鼻茸は無いと言われてとても嬉しくなり喜んで帰りました。それから間もなくサンディエゴへ来て、何ヶ月かしたら、又鼻茸が出来ましたので、パラダイス病院へ行って手術して貰い、その後も幾度繰り返したか分かりません。電気療法、洗浄、ドクダミの煎汁とあらゆる療法を試みましたが効果はありませんでした。今から三年位前、又鼻茸がつまって来たので、いつもの専門のドクターへ行って手術をして貰いましたら、手術中出血多量になって全部除かれないから二週間後に来るようにと言われ、二度目に行ったら時、全部除去して貰いました。その時つくづく嫌になり、二度と再発しない方法はないものかと考え、神様に祈って居りました。すると耳元にかすかに「ニューヨークでドクターから貰った薬をトライしてみよ」と聞こえたように思いましたので、「あっそうだ。愚かな私が忘れていた。」と早速ドラッグストアから薬を買って、朝夕一、二滴ずつ入れて居りましたら、何時の間にか鼻茸が出来なくなりました。神様の示しにより、三十有余年苦しめられた頑固な鼻茸から解放されて、身も心も爽やかになり、八十七才とは思えぬ健康に恵まれ、感謝で一杯です。もっとも、耳が遠いので不自由な点もありますが、まだ読書に差し支えない丈夫な眼を与えられて感謝です。三人の子供達がそれぞれ教会は違っても、今尚信仰を守り続けております事、嬉しく思います。愚かな私にも身に余る数々の御恩寵、ただただ感謝を捧げるのみです。世の多くの人々、主を信じて平和な生活を過ごされます様、念じてやみません。

のぞみもきえゆくまでに よのあらしになやむとき かぞえてみよ主のめぐみながこころはやすきをえん かぞえよ主のめぐみかぞえよ一つずつ かぞえてみよ主のめぐみ(聖歌六〇四番)

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すべての事について感謝しなさい

島 章

 私は和歌山市で生まれ一九二三年一七才の時、両親の呼び寄せで渡米しました。当時のサンディエゴは人工六万という小さい田舎タウンでした。若い者には娯楽機関などなく、私達は自然と人の集まる所に導かれて行きました。組合教会では青年会を組織して当時の牧師中村順三と指導のもとにごく自然とキリスト教の信仰へと導かれてゆき、十八才の時洗礼を授けていただきました。しかしはっきりした動機があったわけではありませんでしたし、仕事につくようになると、自然と教会生活から遠ざかっておりました。

 終戦後、両親、妻、娘がホーリネス教会に導かれ、八尋牧師から受洗しましたので、吹上牧師在任の時、私も当教会に転入会をさせて頂いて現在にいたっております。六年前ストロークで倒れ半身不随となり、今は療院生活を余儀なくされておりますが、主にあるお陰で皆様の篤いお祈りの中に覚えて頂き、又教友の方々からは色々とご親切にして頂いて、感謝の日々を過ごさせて頂いております。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。」(第一テサロ二ケ五章十六―十八節)病床にあって何も出来ませんが、主にあって喜び、祈りと感謝の日々を過ごす事が出来、心から主の聖名を賛美歌しております。

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五十五才のバプテスマ

堀井 菊枝

 私は一九〇一年五月一一日和歌山で生まれました。一九二一年、主人と共にアメリカへ来ました。その後一九三八年、三人の子供と共に日本へ帰り、主人は再度アメリカへ渡りました。長女も仕事の手伝いのため五年後一人で、アメリカの主人のもとに帰りました。その後第二次世界大戦が始まり、私達はアメリカに帰れず、日本の地で大変苦労しました。一九五一年、二人の子供を連れて、一五年ぶりにアメリカ居ります主人のもとに帰ることが出来ました。次女千寿子が三三才の時、腸ガンになり、私達はびっくりすると共に、病のことを知らずにいる娘を思うと、苦しい悲しい毎日でした。丁度娘のお世話に来てくださった白人のホスピスの看護婦さんが大変熱心なクリスチャンで、娘に熱心に伝道して下さいました。そして、娘にかくさず本当の真実を話、治らない病であることを話、イエス様の救いを語って下さり、神様が守って下さるから病気を恐れずおまかせしてと話され、娘は素直に主を信じて、平安のうちにイエス様と同じ三三才の年で天に召されました。死を恐れず喜んで天国に行かれた娘の信仰を見て、私達夫婦も同じ信仰を持ちたいと思いました。

 そんな時、教会の向井姉宅で家庭集会にさそわれ、八尋先生のメッセージの後、イエス様を信じ受け入れたい方は手を上げてくださいとのおすすめに、私達夫婦は思わず手を上げ信仰の告白をしました。洗礼を受けたのは五五才でした。その後長女もも主を信じ救われました。主人は長い間教会の役員をさせて頂き感謝でした。主人は何時召されてもいい様にと部屋の中をいつもきちんと整理しておりました。本当に突然一九七三年一月三一日ストロークで天に召されました。教会の引き継ぎをなされる方がおどろく程、きちんとしていた様です。

 私も長い間、どんな事があっても夜の祈祷会、日曜日の礼拝を守らせて頂いておりましたが、ころんで腰を傷めて歩行が困難になり、現在は長女の家にて静養させて頂いております。九三才になりますが、歩くことのむずかしさだけで、耳も遠くなく食事もおいしく頂けて、本当に神様に心から感謝しています。礼拝には出られませんが、家にいて皆様の事を覚えて祈らせて頂き、また賛美して主をほめたたえております。今日あるは、主の恵みである事を心から感謝し、主の御名を崇めます。

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七十年の信仰生活

野村 ふじ

 私は一九三〇年、福井県で生まれました。死んだら地獄に行くのが怖かったので、私は小さい時から禅宗の教えを聞いて育ちました。一七才でクリスチャンの主人と結婚し、その後すぐ渡米し加州ラミナダに住み、レモンのランチで主人は働きました。そんな折り救世軍の集会がランチの食堂でもたれ、初めてキリスト教のメッセージを聞きました。『わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上の自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。』とマタイ七章のお話でした。又、大酒飲みの兄弟の、主にある変えられて恵みの尊い涙のお試しに心とらわれました。当時ランチには葛原定一先生、佐久間先生も伝動のため見えておられたのを思い出します。その後三人の子供が与えられ、サンデースクールのお迎えが来て、毎週三人の子供達は、喜んでサンデースクールに出席出来た事を感謝しています。

 そして今度はフルトンに移転し、主人はガーデナーの仕事をしました。私達はフルトンのフリーメソジスト教会に出席し、主人の信仰とラミナダでの信仰生活を通して、すなおにイエス様を救い主と信じ受け入れ、二二才の時洗礼を受けました。フルトンに居ります時、次男が一三才の時、天に召されました。一三才の小さいジョージを前にして私は「ジョージ、人生は明日のこともわからないが、神様が一番良い方法をもって導いて下さるから、神様におまかせしようね」と話し、ジョージは、自分の罪を一つ一つ悔い改めて、救われて平安のうちにしっかりした信仰をもって、天に召されていきました。その後主人をアメリカに残して、私は五人の子供を連れて、一生日本で百姓でもして、過ごそうと帰国しましたが、主人が病気になり、二年後又家族一同アメリカへ渡りました。そして戦争が始まり、私達も皆さんと同じくのボストンのキャンプに入りました。その後シカゴにも行きましたが、加州サンマルカスに移り、息子達は養鶏場を経営してました。その時、主人は召されました。近くの友人にさそわれて、日本語の教会がある事を知り、オーシャンビューの教会に出席していましたが、一九七二年頃吹上先生の時に、サンディエゴ教会に転会しました。私も九一才ですが、早天祈祷礼拝、木曜集会と健康が守られ、出席させて頂いている事を心から深く主に感謝しています。残された人生の日々を感謝しつつ、一日一日を尊く生きたく思っています。

『一日の労苦は一日で足れり』(マタイ六章三四節)

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困難の中から

古川 福恵

 私は一九〇五年十二月四日和歌山県で生まれました。一九二三年、一足先に渡米していた両親のもとに行くためアメリカに渡り、一九二九年結婚して、加州サンピードロに住みました。主人は冷凍会社を経営し、五人の子供が与えられました。下の子供が二才の時、第二次大戦が始まり、コロラドの田舎に引越し、私達は強制収容所には入らず、自給自足の生活をし、敵国外人として排斥されました。出来ることは畑仕事しかなかったので、朝早く二人の子供を連れて出かけ、生計を立て大変苦労しました。

 その後、一軒家に三つの家族が同居するようになり、病弱な私は神経衰弱になり、健康のためにユタに移り、三年間テントを張っての生活もしました。

 その後、コロラドのデンバーに引越し、母方のはとこの伯父がクリスチャンになってあんな頑固な人が変わっている姿に驚き、彼の誘いで、一緒に初めて教会に夫婦で出席しました。平信徒による集会でしたが、彼のホテルを使って、熱心に伝道していました。親切にやさしく変わった伯父を見て、私もそうなりたいと思いました。苦労していました私達は、何かに頼り、すがりたい心でいましたので、イエス様にとびこむ思いで主を信じ、主を受け入れました。そして一九四八年十月二十四日、シカゴから祝部大介(ほうりだいすけ)先生がわざわざ来られて、夕拝の折、洗礼式をして下さいました。五人の子供達はメソジスト教会に出席し、五人共洗礼の恵みに預かりました。朝は子供達と礼拝を守り、夜はホテルでの夕拝に出て、大変恵まれました。一九四七年から六〇年迄、主人はホテルの経営をし、私はメイドの仕事をしました。日本から来た多くの牧師方をよくお泊めしました。

 長女と次女が加州サンディエゴに学んでいましたので、一九六一年チュラビスタに移転し、祝部先生の友人佐久間先生よりサンディエゴ教会を紹介され、一九六三年、古いウエブスターにあった教会に導かれ、主人は長い間役員のご奉仕をさせて頂き、一九八八年十月一日に天に召されました。あなたのような頑固な人は救われませんと言われた主人も、変えられて、同じ主を信じる者として人生を歩めたことを心から主に感謝しております。

 信仰生活五十年になりますが、弱い私達を苦しい時も悲しい時も変わらぬ御愛をもって、背負い続けてくださった主の憐れみと恵みを思い、主の祝福にひたる事を心から感謝致します。私も八十八才になり、肉体的に弱さを覚えますが、一緒に住んでいる長女と共に礼拝を守らせて頂けます幸いを、心から感謝している日々です。年取るごとに増し加わる恵みを覚え、世の終わりまであなたと共にいると約束して下さる主に心から深く深く感謝しています。

 「胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ四六章三、四節)

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イエス様と共に

佐瀬 徳子

 私は一九一二年、ロスアンゼルスに生まれました。現在八二才になります。私が九才の時、一人で父親の知人に連れられて、日本の和歌山県の祖父母の希望で、十一年間そこに住みました。そして二〇才の時、父親の意志で家族のいるチュラビスタに戻りました。その後、一九三六年インペリアルバレーにて、クリスチャンの主人と結婚しました。その頃、日本で旧友であった島正子姉がご主人と共にサンディゴの地に帰米されて、再び友好を持つ事が出来、本当に嬉しかったです。

 一九三七年ウエストロスアンゼルスにて長女を出産、次に長男を与えられましたが、一九四二年第二次世界大戦の折、家族はアリゾナ、ポストンの移民避難収容所に入れられ、末の子は収容所で生まれ、六ヶ月後に終戦を迎え、出ることが出来ました。索漠(さくばく)としてきびしい暑さの砂漠でのキャンプ生活は、三人の子供を抱えて大変だった事を思い出しますが、日本人が大勢一同に集まっての生活は、結構楽しかった様にも思います。

 その後私達がチュラビスタに戻った時、島姉に誘われて初めて教会に出席しました。私は先生のお導きの中、素直にイエス様の教えを受け入れ、救いの恵みに預かることが出来、一九六三年十一月の感謝祭に、細見牧師より洗礼を授けて頂きました。三人の子供が与えられて、長男は四四才の時、天に召されましたが、末娘は宣教師と結婚して、今オーストラリアにおります。神様の御用をさせて頂けます恵みを心から感謝しております。

 年を取っておりますが、健康を支えられて、木曜集会と礼拝にと休まず出席させて頂けます幸いを心から主に感謝しております。私の大好きな御言葉は、詩篇一一九篇一三〇節「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」です。救われて、イエス様と共に長い人生を御言葉に導かれて、今日ある幸せを心から深く主に感謝し、聖名を崇めます。

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いつも共にいて下さる神様

島 正子

 思いもしなかった第二次世界大戦の火蓋が切り落とされたのが、もう半世紀も前の思い出になり、今から考えると夢のような気が致します。当時結婚生活もやっと落ち着き子供も恵まれこの世代に申せばほんとうに幸せに平穏な毎日を過ごしておりました。日米開戦当日には、主人の父が敵国外人危険人物の一人と見なされ検挙されて行き、その一週間後に続いて主人も検挙され、残された私達の上に大きい試練の時が訪れたのでした。乳呑児を抱え、年老いた 姑を相手にどう暮らしてゆくのか不安と恐怖の中での日々を送っていた事でした。そんな時ホーリネス教会の方々が愛に手を差し延べ、慰めと励ましと共に福音をたずさえて訪問してくださるようになり、姑が教会へ導かれて今村さん御夫婦の御恩意で聖日礼拝、水曜夜の祈祷会へ出席するようになりました。ある日、沖本先生の奥様(前夫人)が、小原鈴子先生の書かれた『歩みの跡』という小冊子を持って私を訪ねて下さり色々信仰のついてのお話をして下さいました。

 それから御夫妻で何かと色々とご親切にして下さり、私の信仰への芽生えをお導き下さったのでした。そのうちにサンディエゴ日本人の強制立退きがあり、一同は両手で持てるだけの荷物を提げて、サンタアニタ競馬場の臨時収容所へ送られたのでした。私の方はパサデナの両親が心配して、一旦パサデナに来るようにと妹を手伝いに寄越してくれましたので、立ち退き前に家の片付けをしてパサデナの収容所へ行ったのでした。主人のほうはサンディエゴ郡監獄からタハンガのCCキャンプ、そしてモンタナ州のミゾラの収容所に送られて、そこで審問が開かれその結果釈放されて、丁度私共がサンタアニタ入りをした日に主人もサンタアニタへ帰って来て半年ぶりの再会をしました。同所では約半年滞在、それぞれの転住所へ送られたのでした。サンディエゴ一行はアリゾナ州のボストンへ、パサデナの一行はアリゾナ州のヒラでした。転住所は、どこも砂漠を墾り拓いて建てたバラックでした。そこで終戦まで約三年間滞在し、帰還の許可が出て懐かしいサンディエゴに帰ってきたのが一九四五年十月一五日でした。

 沖本先生御一家も私共より一足先に帰っておられ早速、色々と御親切にして頂いた事でした。帰還後最初のクリスマス祝会をするからとの事で、おじいちゃんとおばあちゃん、久恵の三人が出席させて頂き、以来ずっと教会に通わせて頂いておりました。翌年帰還後の初めてのホーリネス教団の総会があって沖本先生はサンロレンゾ教会に転任される事になり、八尋先生が羅府から当地に赴任されてこられました。親しくさせていただいた沖本先生方との別れがつらく、先生に淋しくなりますと申したら、先生は「八尋先生はすごく親切な方でお願いした事にはノーという事の出来ない方ですから良くして下さいますよ」との事でしたが、全くその通りで在任一六年間随分と御世話になり御親切にして頂きました。おじいちゃん、おばあちゃん次に久恵、そして私は一九五八年の感謝祭礼拝の時、植地姉母子と共に八尋先生より受洗いたしました。以来ほんとうに遅々たる歩みですが、今日までお守りのうちに導いて頂いた事を心から感謝致しております。以来今日に至るまで色々な事がありましたが、神様はすべてを最善にお導き下さいました。『何事も思い煩ってはいけない。ただ、事々に感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申上げるがよい。そうすれば人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト イエスにあって守るであろう』(ピリピ四章六、七節)

 神様はいつも真実なお方で世の終わりまで共にいて下さるお方である事を信じ、現在こうして平安のうちに幸せな老後を過ごさせて頂ける事心から感謝しています。

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神には何でも出来る

ケンプトンまつ

 私は大正二年、関東大震災のあった年に横浜で生まれました。約二ヶ月の赤子であった私は、縁側に寝かされていた所、母が私抱いて逃げて間もなく、家は倒れたと聞いております。幼い頃よく祖母から「あなたはどうして男の子に生まれてこなかったの」と言われ、この言葉は私にはむずかしい問題でした。物心つく頃になりますと私は一体何のためにこの世の中に生まれてきたのかしらと考えるようになりました。私の生まれた実家は仏教信者でで、熱心に毎朝、祖母は私をそばに座らせてお経を唱えておりました。又、お寺参りにも連れて行かれましたが、どうも私にはなじめず、私自身は他の宗教へと移って行きましたが、そこの世界も同様でした。人生僅か五十年と御詠歌を唱えていても、何のためにこの世に生きているのか、目的のない、侘びしい思いでした。

 そのような時に、主人と知り合い、子供時代から思っていたことは、一度アメリカに行って見たいと考えておりましたので、親の反対を押し切って結婚をし、スーツケース1個をさげて、軍の艦に乗って渡米しました所がサンディエゴのこの町でした。

 渡米後、経済的にも困りましたが親の反対を押し切って来ました手前弱音も言えず、私なりに頑張りました。十年目に、主人はトレーラーを買って住みたいと言い、インペリアルビーチに移転しました。引っ越して行きましたそのパークに宣教師ご夫妻が住んでおり、スペイン語が出来るのでティファナの神学校で教えておりました。ミセスは日本語は出来ませんが、彼女の友達が日本で宣教師として働いておられるとの事でした。その時ミセスから一枚のパンフレットを頂きましたが、私が今までに一度も読んだことのないものでした。次にミセスが見えた時話した所、早速翌日、常石先生と向井姉、今村姉、小池姉が訪ねて下さいました。かたくなな私の心はすなおに教会に行きますとはいえず、子供だけサンデースクールにお願いしますと言いますと、小池姉妹から注意を頂きました。子供だけでなく、親が一緒に学ばないと会話が通じなくなりますよと教えられ感謝しております。当時、井口姉妹が近所にお住まいでしたので早速ライドを頂きました。

 約一年間ぐらい求道生活が続き、そろそろ洗礼を受けたら、とある姉妹にすすめられましたが、私自身は、もう少しよく学んでからと思いしぶっていた時でした。ある時、夢の中で一度もお会いした事のない、八尋先生が、サンディエゴの港に停泊している客船用の大きな船のデッキから、私を見下ろして招いておりました。その時私の乗っているボートは小さな手で漕ぐボートで、波にゆられてとても困っている時でした。先生の声は今でもはっきりと覚えております。「ケンプトンさん、早くこの船に乗り換えなさい。」とすすめて下さっているのです。夢からさめて、一人で考えていた時に、牧師先生がすすめて下さるのは、神様が私のような者をも救って下さるとという事ではないのかしらと洗礼を受ける決心をして受けましたが、罪の告白があいまいのままでしたので、神様のみことばが心の中に受け取る事が出来ずみじめな者でした。タバコは一日にニ箱も吸っており、過去十年間位でしょうか、ニコチンが体に充満していた事でしょう。私自身はその臭いが皆さんに迷惑をかけているとは露知らずにおりました。しかし、兄弟姉妹方はこんな私のような者に忍耐をもって支えて下さいました尊い主にあるご愛に心より感謝しております。その頃でした、『求めなさい、そうしたら与えられます。門をたたきなさい、そうしたらあけてもらえます。』とのことばが私に迫って来ますが、何を求めてもよいのか分かりませんでした。しばらくしますとタバコを吸うのを止めたい気持ちにさせられました。自分の力で止めようとしても、なかなか出来ずにいた時でしたが、『人には出来ないが神にはなんでも出来る』との御言葉に導かれて「イエス様私のタバコを止めさせて下さい。」と祈ったその時から、はや二十数年になりますが守られております事を主に感謝しております。

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主をみあげて

ウイリアムス静江

 私がダンスター恵子さんと知り合ったのは、今年三十才になる娘のマコが、小学生の頃YMCAの水泳のレッスンに通っていた頃でした。子供達を待ちながら話し会っているうちに、お互い読書が好きだという事が分かり本の貸し借りが始まりました。私の好きなジャン・スタインベックの「エデンの東」とか「怒りのぶどう」等の話をしているうちに、旧約聖書のおもしろさが分からないと、分かるのは半分位という事に気が付いて聖書を読み始めました。出エジプト記は面白かったけれど、レビ記、申命記は何と、同じ事を繰り返す、しつっこいことばかり書いてあるんだろうと思いながらも、納得しないと気になるので読み続けました。「もっと英語をやっておけばよかったのに、」なんてるぶやきながら。ある日、ダンスター恵子さんが「プレゼントよ」と持って来てくださったのが、今私が大事にしている聖書です。これはまさに神様がいらっしゃるという本当の「プレゼント」でした。聖書の表現はかわっていて簡潔なので、知りたいと思って色々読み漁りたくなりましたが、本屋にはあまり見付かりません。教会に本があって貸してくれると恵子さんから聞き、電話をしました。吹上牧師からどうぞどうぞと言われ二月の寒い朝、伺いました。借りるのにお金はいりませんと言われましたが、私はタダほど高いものはないと思っていましたので、礼拝に出て箱が回ってきたら二、三ドル入れれば良いやと思って礼拝に出、本も借り続けました。もし私が活字に飢えていなかったら、放りだして読まなかったと思うような本もありました。小池てるさんからも沢山、本を貸して戴きました。

 私が育った環境は、賛美歌より都々逸の方が幅をきかせていた世界でした。私の大好きな「好きと嫌いじゃ、どれほど違う 命ただやるほど違う」私を今まで命をただやるほど好いてくれる人がいたでしょうか。又私も命ただやるほど好きになった人がいたでしょうか。私は娘と私の無事平穏な生活を守るためなら、首吊りをしている人の足を引っ張る事さえしかねない。そして、そんな事をしたのは私じゃないよ、と言える私。威張って犯してきた罪、悪いと知っていてした事、気がつかずに人を傷つけた事、等々、気が付いて見たら、私はイエス様が十字架にかかる時、ちりじりに逃げて行ってしまったお弟子さん達と同じだったんです。ルカ二二章五八―六〇節の意気地の無いペテロと同じだったんです。六二節の主はふりむいてペテロを見つめられた。私にはペテロの悲しさが痛いほどわかりました。意気地がないくせに、すぎ反抗する弱い私の罪のゆえに、十字架にかけられて命をくださった、神のひとり子、イエス様がいたんです。第一コリント一三章にぶっかった時には毎日、何十編となく、繰り返し読みました。私はこの愛の章を通じて、イエス様にお会い出来ました。御言葉を集めた聖書はよく読むときれい事は言っていない。あくどく、すさまじい、と思える事も、はっきりと書いてある。イエス様が衝く事は、他人を批判するお前はどうなのか。キリスト様は人間の弱み、特に私の弱さを、真正面から見せてくれる。自分が神の前で悪いことなど一つもしていないと言う自信があるなら、他人を告発しても良いがそうでなかったら人を非難したりするなと、私に言っておられる。御心にかなった、生き方をしたい。そのために努力はしているつもりだけれど、寝る前に決まってあの事もこの事も、私自我で言ったり、したりだった、ゴメンナサイ、ゆるして下さい、と祈って安眠出来る幸せをかみしめながら、ころんだり、つまずいたりしながら、生きて行ける自由、神様ありがとうございます。

 私のたった一つの、取り得か、欠点か良くわからないけれど、本を乱読する事を通じて導いて下さるなんて。私のような、人間として知恵も知識もあんまり持っていない者にはよくわかりません、時々、信仰も何もかもふっとんでしまって自分の感情にかられて、どなりちらしたりするけど、そんな私の「カジ」を取って、生かしていてくださる神様。キリスト教が単純な性善節でない事が、私にとってどんなに嬉しい事か、何と言って良いのか、わからない位です。誰もが良い人ですなどと言われたら、私どこかに消えてしまわなければならないと思います。ロマ三章九―一二節、初めから正しい者、完全な「善」を行う者も一人もいない、と言われれば、平気で自分の弱点も、他人の弱さも見る事が出来、あの人は許せないとか、私も生きている限り、許してもらえないのじゃないかと思わずに生きられる。聖書は初めから、悪い点のない人間はいない。ロマ三章三―九節と書いてある。もし神様が私の目に見えて、野球のアンパイヤーみたいに私の行為が、ストライクかボールになっていたら、私はご機嫌を取るだけで、行動する事になると思う。神が私の心の底まで知っていられるのだから、人に良く思われたいと、しがみつくような思いもしなくてすむ。腐るほどお金を持っているわけでもないけど、山ほど積んでもお金出は買えない、魂の健やかさ、みたいなものは戴いて生きていかれる。心のそこから「神様ありがとう」と生きていかれる。主を見あげ、御名をさんびしながら。

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最大の罪を知って

ラッド とし子

 四人兄弟の次女として東京で生まれた私は、小学生の頃、芝、白金の明治学院の教会学校に通い、母が私たちに教えてくれた賛美歌「十字架の地にて、きよめたまえ」を良く歌ったものでした。大好きだった父は、私が子どもの頃亡くなり、母は数年前九九才の長寿を全うしました。

 一九八四年にアメリカ人である夫と結婚し、幸いな日々を過ごしていました。ある日私はコーンスタンドでお店番をあいていた一世の向井さんと言う方に誘われて、日曜日の教会の礼拝と持ち寄り昼食会に招かれました。これは私の初めての礼拝出席でした。

 しかし、結婚してちょうど二年、主人は心臓マヒで一夜にして突然亡くなりました。すべてのことを頼り切っていた私は、外国の地に一人残され、どん底に落とされた思いでした。彼もあれほど幸福だと言っていた人生を断ち切られ、昨日までこの椅子に座っていた彼は、二度と私の前に現れることがないのだ、この死の残酷な現実は、悲しみとともに、非常に恐ろしく、人はどんなに若いときでも死への解決が必要だと、この悲しみを通して知りました。

 外国の地で一人になった私は、ただ教会の方々にお頼りする事になり、教会生活が続きました。聖書をよんでいるうちに『血は命であるゆえに、あがなうことができる』(レビ記一七章十一節)『御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめるのである』(第一ヨハネ一章七節)と、これらの聖書のみことばに接したとき、その意味の深さに心うばわれ、もっともっと聖書がわかりたい、イエスさまの事を知りたいと熱心に求め、すべての集会に出席するようになりました。又『血を流す事なしには、罪のゆるしはあり得ない』(へプル九章二十二節)このような言葉は、どんな宗教にもなく、イエス様が私の罪のために身代わりとなって十字架に死んで下さり、私の罪の一切を赦して下さるのだという事は、私の心を深くゆり動かしました。

 聖書は十戒で神様は「最大の罪」は神は神として拝さない罪である。この神は天地万物の創造主である神で、すべてのものを支配されておるお方、この創造主を拝さない事が如何なる罪よりも一番大きな罪であるといって居られます。殺人罪よりも大きい罪であるならば、私はどうしても救われたい、赦されたい、神を信じたい、この「最大の罪」から解放され、きよめられたいという思いにかられました。そして十字架の血潮の意味や、神の極限の愛が十字架である事が分かり、私の生涯をイエス様にゆだねて歩もうと決心し、三七才のとき過去の一切の罪を悔い改め、赦されて洗礼を受けました。

 救われたいという事はすばらしい事です。私の世界は変わりました。死への解決が与えられ、見るもの触れるものみな新しく、心が喜びに満たされた生活となりました。悲しみ、空しさの生活が一新され、私は残された生涯を神と人とに仕え、まだイエス様を知らない方々に、このすばらしい希望ある人生をお知らせしたいと願っており、使命感を持って、祈りつつ良き証しびととしての日々を過ごしたく思って居ます。

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信仰に堅く立って

グレイまつ子

 私は浅草で生まれました。私が九才の時に父が脳出血で急死しその翌年浅草の大空襲で母も失い、両親を続いて亡くしました。私と姉はそれぞれ、別々の親戚にの元へ引き取られました。姉は長野の叔父の所へ、私は東京の叔母の所へ行ったのです。祖母の家にはまだ幼い子供が五人おり、私は好きな学校へも満足に行かせてもらえず、ただ子守りや、女中代わりに毎日こき使われて、子供心になぜ私だけがこんなに差別されて祖母はいつもつらく当たるのだろうと、無性に寂しく時々姉を思い出しては良く泣いたものでした。でもそんな中にあっても、幼い子供達は私に「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と慕ってくれたのがせめてもの慰めでした。私が二十才の時に友人の紹介で務めに出ました。そこで主人と出会い、しばらくの間交際をし、一九五九年に結婚しました。私達はとても幸せな結婚生活でした。そして、七年後に男の子を養子として迎えました。九年前にある日突然主人がハートアタックで急死し、私はショックでただ茫然としてしまい、余りにも主人に頼りきっていた自分がどうしようもない失望感にうちのめされ、これから誰に頼っていったらいいのか、ただ残された自分が孤独と不安で夜も殆ど眠れない状態が続き、いっその事主人の後を追って死んでしまいたいと何度も思いました。

 ある時近くに居る友人の家でクリスチャンの方に出会い、そこで日本人教会にお誘い頂きました。私も寂しさよ悲しみの中に毎日過ごしていましたから、なにかにすがりたい思いがありましたので、さっそく出席させて頂きました。毎週聖日礼拝に出席しているうちに、なぜか分からないけれど、だんだんと私の心の中に安らぎを覚え、すべての苦しみと悲しみから解放されたような何かほっとするものがあり、とても不思議な思いを感じた事を今もはっきり覚えています。今にして思えば、神様はこの絶望の中にあった私に救いの手を差し述べて下さったのだと深く感謝しています。『神様は真実である、あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである』第一コリント十章十三節、この御言葉に強められ、イエス様は私のために身代わりとなられて、十字架にかかられたのです。イエス様は私の救い主としてはっきりとそのお方に従ってゆこうと決心し一九八六年洗礼をを授けて頂きました。これからはどんな事があっても、与えられた信仰に堅く立って、神様に愛され喜ばれるキリスト者として日々歩みたいと願っています。そしてまだ救われていない息子の救いのために祈りつつの毎日です。『いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい。これがキリストイエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです。』(第一テサロニケ五章十六―十八節)

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主は、私の光、私の救い

アバロス和子

 神様が、私達の内にいらっしゃると、子供の頃から聞いていながら、全く無関心の無神論者で、私は私の道を行く、という驕った心を持って、私は日々結構楽しく過ごしておりました。ところが、今から十数年前のこと、当時バージニアに住み、チェサピーク湾でピクニックを楽しんでいる時に、数人の子供達にかこまれた四、五才位の男の子がシャツに釣り針を引っ掛けて取るのに悪戦苦闘していましたから、それを見兼ねて、私が手助けしますと、母親が急ぎ来て、サンキューの声もなく黙って子供の手を引いてさっさと離れて行きました。私は会話も出来ず、親しい友達もなく、ここでは、誰にも信用されないのかと淋しい思いで、海中を見ておりますと、身体全体が深い孤独の闇に吸い込まれて行く様で、もうアメリカには住みたくない、日本に戻りたいという焦りにも似た思いに絡られて主人を慌てさせました。実際、私にとってアメリカ生活は、変化に乏しく進歩もなく、今まで身につけて来たものが、全く無駄になったことで何をしても空しく、退屈で溜息の出る毎日でした。ある日、気持ちを紛らわすために、庭の花をほぐして内側を見ておりますと、その色彩と模様の完璧な美しさに驚嘆して、心を打たれました。このように繊細で技巧的なものが、自然にできるはずがない。本当に創造主の神様がいらっしゃるのかも知れない。それなら神様を知りたい。どうしたら分かるのかと、雲をつかむような思いで、神様を求めますと不思議なことに『聖書にある』という考えてもいなかった思いが起こされたのでした。

 その二、三年後の一九七九年主人の転勤に伴い、サンディエゴに来ました。主人は艦に乗り、私は家を買うために、ブローカーの家に預けられてしまいました。気に入った家が見付からず、不自由な生活を強いられていた時に、ジニースミス姉にお会いして姉妹がバプティスト・チャーチの方を紹介して下さり、その方に誘われて教会へ行きました。英語で何も分かりませんでしたが、礼拝前の一五分間に日本人女性で主立った方が日本語の聖書を拝読して、お祈りを捧げられました。念願の聖書を買い、良い友達と交わり、家庭集会も招かれて、訪問伝道までして下さったのですが、家では聖書も開かず、神様を知りたいと思った事もすっかり忘れていましたから、教会の方は少しずつ足が遠のいて、二年後には全く行かなくなりました。

 更にその一年後、姉妹が中馬恵子姉を紹介して下さり、九月から三ヶ月間墨絵を習いました。すみ絵を止めた翌月の一二月から中馬姉宅の家庭集会に招かれ、そこで大川牧師から十字架の愛と中東戦争のお話を聞いて興味深く思い、教会へ行くことにしました。牧師はこの九月から赴任して来られたのでした。そして、中馬姉とケンプトンまつ姉に連れられて、二、三か所の家庭祈り会に出席させていただき、続いて、水曜夜の祈り会に導かれました。『人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。たとい、その人が倒れても、全く打ち伏されることはない。主がその手をささえられるからである。』と詩篇三七章二三節にありますように、神様は忍耐深く、クリスチャンの姉妹を通して、神に背を向けて頑固に放浪の旅を続けていた私を、こうして教会に導いて下さったことを思いますと感謝に絶えません。

 この導かれた夜の祈祷会で、不思議な体験をしました。始めにキリスト教が啓示宗教であることを学びました。聖書はルカによる福音書二章が開かれて、牧師がみことばを拝読され私はその間ノートを取っておりました。二章十一節に『きょうダビデの町にあなたがたのために救主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。』とあります。牧師がこの箇所を拝読されたとき、私は聖書に目を移しました。私の意志ではなく、不思議な力によって、ふと見たのでした。そこには、『救主がお生まれになった』という活字が、ゴシック体で太く鮮やかに浮き上がっていました。驚いてじっと見詰めていますと、活字の下では何かがせわしなく働いている様子が感じられました。翌朝また、この二章を開いてみますと、その活字は他の活字と全く同じですから不思議に思いながら「清しこの夜」を口ずさみ、歌詞を探して聖歌を開きますと、始めに開いたところが「清しこの夜」でした。このとき母親がやさしく子供に頁を開いて渡したような、暖かい愛を感じて自然に涙が溢れでました。第一ヨハネ四章十節に『わたしが神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、わたしたちの罪のために、贖いの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある』とありますように、神の愛は、母の愛と共通して、慈しみ深く、犠牲的愛であり、神聖で、永遠に絶えることのない愛と知って感動致しました。その年の十二月から翌年二月までの三か月間に三回に亘り、不思議な聖書に関わる夢を見て、三位一体の神を啓示されました。また幻を見て、信仰が霊の戦いであることを知りました。イエスキリストが十字架にかかり、死んで三日目によみがり信じる私達に永遠の命を備えて下さったことを聖書から学び信じて、一九八二年二月二八日に、晴れて受洗の恵みに預かりました。

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人生最大の喜び

吉田佐智子

 一九八五年、イースター。神様は私の人生最大の喜びの日をスタートさせて下さいました。約十年経った今でも、ハッキリと、「私の人生最大の喜びは、クリスチャンにさせていただいた事です。」と声を大にして言う事が出来ます。それ程、私にとって、神様、またイエス様の十字架は、全ての全てに勝るものです。そしてこれからも、この信仰は決して失われる事がないと確信しています。

 梨と温泉で有名な鳥取県の田舎町に果樹園の長女として生まれ、大家族の中で育ちました。三つの大きな果樹園の他、米、梅等も作っていましたから、いつも、手伝いの人々の出入りが激しく、私達も手伝わされたりして大変忙しい中に育ちました。しかしそれも父が突然三十九才の若さで、脳卒中の為、他界してからは、徐々に果樹園や田畑も、母や祖母だけでは賄いきれず人々に売ったり、貸したりして、親戚の方達に助けられて、生活する様になってきました。ですから父の面影はいつも忙しく夜中まで働いていた姿だけでした。しかし、私達四人の子供達の事は忙しい中でも可愛がってくれて大らかな皆に好かれる人でした。そんな父が他界したのは、私の中学一年の冬の事でした。高校時代は三年間剣道部に入っていましたので、練習練習の毎日、夏休みも合宿合宿で、帰りはいつも暗くなってから。常に足の裏は豆だらけにし、その豆がつぶれて非常に痛いとき母がよく「そんなになってもまだ止めないの?」と言っていました。ですから、家の事はあまり手伝えずに申し訳なかったなと思っています。

 故郷を離れ、東京のNEC日本電気に入社。全く何も解らずただ主人だけを頼って、ミネアポリスの地に、生活の根を下ろしたのです。その後、長女の出産、育児、次に長男の出産、育児と忙しい日々を送っていました。主人は朝出掛けて行くと帰りは夜中の十一時前後、誰も知り合いのいない所に来て、二人の子育てに追われ、「何の為にこんな所まで来てしまったのだろう。」と毎日思い悩み苦しんでいました。そんな時、日課としていた散歩の途中で藤森さんと知り合い親しくなり時々お宅に伺うようになりました。彼女が「家で宣教師の方を招いてバイブル・スタディをしているのですが、参加しませんか」と誘われ藁にもすがる思いで、それから毎回出席する様になりました。宣教師のジャネットさんが日本語で解りやすく聖書の学びをして下さったのです。日本人の為に重荷を負って下さり働いておられる素晴らしい方です。私の受洗の時わざわざミネアポリスからサンディエゴまで来て下さいました。本当に大きな喜びでした。彼女は常に賛美をもって神様をほめたたえ、回りの方々に光となりいつも輝いておられます。私はそのような彼女に感銘し、彼女の様に輝いた人生を送りたいと願い、「今度の日曜日に佐智子さんも教会に行きませんか」とのお誘いにすぐ「はい行きます、連れて行って下さい」とお願いして連れて行って頂いた教会が、松田先生が牧会しておられたミネアポリス日本人教会でした。初めて歌った賛美歌に涙したのを覚えています。礼拝のメッセージは覚えていませんが、十字架上のイエス様のメッセージが多かったのではないでしょうか。二十名か三十名の方々が毎週持ち寄りで、ランチが牧師宅であり、楽しい交わりの時を持たせて頂きました。牧師夫人は五人の男の子をそだてられ、忙しい中にありながら、低い姿勢で信徒一人一人と交わっておられました。私は、強い感動を受けました。

 一九八四年の一二月からサンディエゴ教会に出席し、翌千九百八十五年四月七日受洗させて頂きました。素直に、幼子の様にイエス様を信じる事が出来ました事、心から感謝しています。『主イエスを信じなさい。そうしたらあなたも、あなたの家族も救われます。』使徒十六章三一節 今思えば、救われる迄の道程は神様の御手に守られた上での忍耐だったのではないだろうかと思います。この約十年間においても、またこれから後も、主人の救いの為に、また私の置かれているその所で、神様から与えられた光を輝かし、主イエス様を証し、交わらせていただくお一人お一人の魂が救われます様にと日々祈る者とさせていただきたいと願い励んでいます。

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光の中へ

スミス ヒデ子

 主イエス キリストの恵みがこの証へと導いて下さった事を感謝する者であります。一九七〇年二月、主人と共にこのアメリカに来ました。真新しい外国での生活は不安でもあり、また、楽しい時でもありました。同じ年、八月一日、娘が誕生し忙しい主婦業と子育てで幸福な生活をおくっていました。しかし、五年後、私達の幸せな生活はひとりの女性の出現によってくずれていきました。主人は家庭をかえりみず娘と私から去っていきました。五才の娘をかかえた私は、暗闇をさまよいました。言葉も満足に話せない外国での生活、これといった職業も見つけるすべも知らず、すぐに生活に困るようになりました。あんなに燃えてアメリカに来たのに、あんなに主人を信頼していたのにどうしてこんなになってしまったのか堂々めぐりの思いばかりでした。人間の愛と心は、こんなにも変りやすいのかと毎日空しく過ごしていました。主人とその愛人に対する嫉妬と、また主人に対する憎しみの思いが心に忍びこんできて、深く潜んでいる事をどのようにしたらいいのか分かりませんでした。

 娘と私は、コロラド行きを決心し、ひとかたまりの荷物とユーホー・トレーラーと共に山の中に引っ越して行きました。過去の楽しかった生活を思い出しながら涙と共にサンタバーバラからコロラドへの道は長い長いみちのりでした。そこで待っていたものは聖書でした。日本人女性のお宅の集会に招かれて行きました。その時のお話は全然覚えていませんが教会生活に導かれ聖書の勉強をするようになりました。聖書を読んでいくうちに不思議な事が沢山示されている事に気付きました。愛、人生、罪、今まで考えなかったこと、まったく違った世界を知ることが出来ました。もっと聖書を読んでいくうちに、私は生まれながら罪人であることを示され、今まで神を知らないできたことの無知をなげきました。主人に対する激しい憎しみの思いが聖書によって、私こそ赦されなければならない存在なのだと気がつき性愕然としました。今までおかしてきたさまざまな罪を神様の御前に赦して頂きたいと願いました。私を導いてくださった。グレース ワットソンという宣教師の指導によって、洗礼へと導かれたのは一九七八年一二月三一日でした。

 イエス様は、私の悔い改めの心を受け入れてくださり、キリストの者として下さいました。さまよっていたこの罪人のために、主は十字架の上で血を流して下さり、罪を赦し、永遠の命へと導いて下さいました。聖くされた者として、日々変えられていくこの尊い人生を深く感謝する者であります。今は、娘は結婚し新しい人生へと旅立ちました。遠い昔二人で、涙と不安と傷の中で生きたあの時は、こんにちの喜びの日々のためでした。きょうまで主は、確かに私達親子を祝福し、日々の生活を守り、どんなときにも共に歩んで下さいました。このイエス様を信じて、残された生きる喜びの人生を、人々に分かち会って生きて行きたいと願っています。

『神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ三章一六節)

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真実の神を知って

比佐 瑞子

 私は五年前の十二月頃、初めて当教会へ来ました。その頃の私は、後悔ばかりがあって人生に絶望を覚え『神様助けて』と心の奥で叫びながら、子供がいるからただその責任の為に生きる状態でした。そんな時、木曜集会で初めて聞いた聖書の学びは、いつも神様に助け求めても得られずにいた私の心の中に強く神様への思いがわきおこりました。私は子供の時から父の影響で「生長の家」という宗教で教える神様を信じていて、中学時代から神様と私とのつながりが分からなくなり、特に短大を卒業した一年後、その事がとても気になって毎日、「生長の家」の本を読んでいるうちにノイローゼになり、それ以来神様の事は考えないようにしていました。私には「生長の家」で言う人間は、みな、神に造られた神の子であって罪はなく、不完全な‘部分は影であるというのが解らなくて苦しむところでした。私はどうにも自分の内面にある清くない部分、完全でない所から神の子と結び付けられなかったし、それを影とする事も出来ず、けれども創造主なる神を信じていて、どうしたら神の子と結び付けられるのか悩みました。以来ずっと多少の良心を基準に、自分の思いのままに生き、神に向ける心をどんなにごまかし、いいかげんにして過ごして来たか知れません。

 木曜集会で初めて学んだイエス キリストの存在は、神様と私のつながりをもたらす希望で、私は心強くイエス キリストを信じたいし、信じると思いました。『イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見て言った。「まことのこの人は神の子であった」。』(マルコ十五章三七―三九節)神がイエス・キリストの十字架によって、人類との隔たりを取り去ってくださったのを知って驚きました。この時、聖書でいっている神が、私が今まで求めていた神だと心に強く信じ、イエス キリストが神と私を結びつけると信じました。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。』(第二コリント五章一七節)。私はイエス様によって生まれかわり、神の子の新しい人生にして頂けるという希望と喜びにあふれて四年前のイースターにバプテストを受けました。神は、人間の罪をはっきり指摘していて、その救い主、あがない主は、イエス キリストの他にいないと信じました。『しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過にとって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。』(エペソ二章四〜六節)。

 後になって悔い改めに導かれ、十字架体験での救いの確信をいただき、以来イエス様は、私を新しい命に生きるものとして下さり、神の愛、恵み、きよさ、謙遜、生きる意味、目的を教え、導き続けて下さいます。今にいたるまでの間、主にある喜び、悲しみ、苦しみを体験し、きよめられ続けるのを求め、あがなわれている命を喜び、主と共に生きる者とされている事を感謝します。

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イエスさまに従って

マーシャル初音

『もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるして不義から、わたしたちを、きよめてくださる。』(第一ヨハネ一章九節)

 一九七〇年、私は友人に誘われ、初めて当教会の礼拝に出席しました。その頃私は、非常に、人の愛に飢えていました。一九才で結婚し、同年渡米しました。主人とのコミュニケーションがうまく出来ず、又習慣の違い等で、主人はストレスがたまり暴力をふるうようになり私は相談する人もないまま、自殺未遂を起こしたり、二番目の子を妊娠中、意識のなくなるまで殴られてたりしました。その後、長男を連れ家出し、友人の住むサンディエゴに来ました。私が二四才の時です。その後、離婚。その頃私は幸せそうな人を見ると妬ましく、また自分が好きになれませんでした。それからの私の生活はめちゃくちゃに落ちて行き、まともな人からは、相手にされないようになってました。その頃「日系人教会でおいしい日本食を食べれるから」とこの教会に導かれました。初め、聖書の話は、よく分からず、それより愛に飢えていた私は、姉妹方のやさしさにとても感激しました。自分と比べ、あまりにも違う姿に、気ずかされました。私も皆さんのように、御愛の人に成りたいと思い、すすめられるまま、一九七〇年一二月受洗しました。一九七九年現在の主人の仕事で横須賀に転勤になりました。八一年当地に戻ってくる時、ある姉妹が「変えられたいあなたに」という本を下さいました。その本を通して、神の忌み嫌われる、傲慢、さばき、嫉妬心、又何よりもイエス様に従っていない自分を示されました。祈りの内に、前記の聖句を通して示された事は、自分の罪の解決をあやふやにしていた事と、本当の救いの確信が無いことに気ずかされ、神と牧師先生の前に今まで犯した罪を思い出す限り告白しました。先生に祈って頂き、心に平安を覚えた事を思い出します。

 あの時から今に至るまで、神様はこのような弱い私を、力付けて下さり、病の時には、常に慰め励まして下さいます。私は真に小さな土の器でしかありません。でも神様はこの私の罪のため、ひとり子イエスをあの苦しい十字架に掛けられた事を思うとき、私に出来る事は、ただ死に至るまで主イエスキリストの御足に従う事だと思っています。

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あなたの人生を共に歩んでくださるお方

牧師 中尾 邦三

 この小冊子を、お読みになって、どのような感想をお持ちになりましたか。この小冊子の名前は、『あしあと』と名ずけられています。日本からここ、アメリカのサンディエゴにおいでになった方々が、この地に残してこられたさまざまな「あしあと」をご覧いただけたと思います。

 それぞれの体験は、ユニークで、他のどれとも違っています。しかし共通したものがひとつあります。それは、どのあしあとも、救い主キリストのもとに向かっているということです。人生の波風の前にある時は立ち止まり、道に迷ってさまよったこともありましたが、それぞれが、救いの主のもとに来て、重荷をおろし、新しい希望の道を発見して、そこを歩みだしたのです。「あしあと」と題された、作者不明の詩があります。それは、こう歌っています。

ある夜、私は夢をみた。
わたしは主と共に、砂浜を歩いている夢を見た。
そこにわたしの生涯が絵になって写し出されていた。
ひとつひとつの絵に、二組のあしあとを見ることができた。
ひとつはわたしのもので、もうひとつは主のものだった。
最後の絵がわたしの前に写し出された時、砂浜のあしあとを繰り返って見た。
わたしの生涯の多くの時に、一組のあしあよしかなかった。
それはわたしにとっていちばん大変で悲しい時だった。
これは、わたしにとって疑問だったので、わたしは、このことで主にたずねた。
「主よ、あなたは、わたしがあなたに従うと心に決めた時、あなたは、すべての道でわたしとともにいてくださると言われたではありませんか。
なのに、わたしの生涯のいちばん大変だった時に、一組のあしあとしかないではありませんか。
主よ、あなたが一番必要な時に、なぜ、あなたがわたしから去られたのですか。」
すると主は、答えらえれた。
「わたしの愛する子よ、わたしはお前を愛している。
わたしは、お前の試練や看難のときにおまえから、決して離れなかった。
おまえが一組のあしあとしか見なかったのは、あの時にわたしがおまえを背負って歩いたからだ。」
 聖書に「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったしべての者よ、生まれた時から、わたしに負われ、胎をでた時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」(イザヤ四六章四節)と書かれています。キリストは、あなたの人生とともに歩んでくださいます。あなたが、ここに載せられたおひとりびとりの正直な告白から、それらの人々と共に歩んでくださっている方、イエス キリストを見つけ出してくださるなら幸いです。

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