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サンディエゴ教会あかし集  1995年4月

=第2号= 目  次

神が私を選んで下さった………………泉 信夫
サンディエゴに来て………………佐藤 竹夫
イエス様に出会ったよろこび………………モラレス 初恵
偶像礼拝から真の神を信じて………………角内 八重子
つまづきから信頼へ………………レイ 幸枝
私を導いてくださった神様………………横内 操
キリスト、私の救い主………………川久 祐子
神様の完全さを知って………………西井 孝子




神が私を選んで下さった

泉 信夫

 私は大阪の矢野区という所に、姉妹、三人兄弟の長男として生まれました。さして食べる物にも困らず、世間で言うところの平和で平凡な普通の家庭という環境で育ちました。両親は熱心な仏教徒で、朝仏壇の前で手をあわせる事から一日が始まり、御近所からの頂き物でもまず仏様へお供えしてからというのがあたり前の生活でしたから、私自身そういうことに対し疑問を感じるという事もありませんでした。今考えると、その熱心さは信仰というよりは、日本のどの家庭でも行われている行事、習慣にすぎないと気づくのですが。それが証拠に、仏教徒であるにもかかわらず、両親は姉と妹を二人とも有名なミッションスクールへ入学させたのです。目的はあくまでも、上品な校風と道徳教育というものでした。姉と妹もクリスチャンとしての信仰をもつこともなく学校を卒業し、そんなわけですから私自身まったくと言っていいくらい、神のことについて話を聞くことも教会へ行くこともなく毎日を過ごしていました。大学を卒業して京セラへ入社し三年程たった頃、突然アメリカへの転勤が決まりました。一九八三年のことです。

 サンディエゴでのアメリカ生活は朝から夜遅くまで、土曜日も出勤というのが当たり前というモーレツな忙しさでスタートしました。責任の多い分だけ充実感もあり多忙ではあっても仕事そのものには満足していた私も日々を追ううちに何か自分の中に欠けている物を感じるようになりました。それが何なのかは分かりませんでした。そんな時、私は今の妻に会ったのです。ちょうど同じ会社に働いていた中馬さんが結婚式の世話をしてくれることになり大川先生のもとで式を挙げていただくことが決まり一度ぐらいは教会へ顔を出さねばという気持ちで生まれて初めて教会へ行きました。今考えると、妻とのめぐりあいも、そして同じ会社に中馬さんという熱心なクリスチャンがいたことも、神様に用意されていたものだったのかも知れません。そして、初めて聞いた神からのメッセージを私は一生忘れることはないでしょう。自分の探していた世界がここにあった、そんな感動でいっぱいでした。翌年のイースター私と妻は二人一緒に洗礼を受けてのです。洗礼を受けクリスチャンになったとはいえ、まだまだ信仰は浅く文字通り迷える子羊です。そんな自分の生活をまるで神から問われるような事件が会社で起こりました。ある金曜日の夜の事です。一人のオペレーターが物につまづき、おしりを打撲したのです。その事をスーパーバイザーに報告すると、彼女はアイスパックが欲しいというだけだったので我々はそれを与えスーパーバイザーも大した事はないものと判断しその時はそれですませたのです。ところが、月曜日の朝一番に会社の方に弁護士から電話が入り、その人は、私達が病院へ連れて行こうとしなかったという理由で会社を訴えたのでした。私達は全員唖然としてしまいました。彼女が転んだ所に居合わせた人達が見てもたいしたことは無いとしか思えなかったし、何よりもその人は病院に連れていってくれとは、一言も言わなかったのです。とにかく事情をはっきりさせようと本人に電話をしましたが、医者にもまだ診てもらっておらず、会社指定の病院へ連れて行こうとしても中々首をたてに振りません。多分、弁護士からの指示だったのでしょうがやっと本人を説得して病院へ連れて行き診てもらったところ、やはり大した事はなかったのです。彼女はそれっきり会社へは出勤して来ませんでした。結局、無断欠勤という名目でその人には会社を辞めてもらったのですが、私は今でもその人の胸に光っていた十字架のペンダントを忘れることは出来ません。その人はクリスチャンだったのです。これでもクリスチャンかと疑いたくなる人が何と多いことでしょう。そして、そういう人を見るにつけそれじゃあはたして自分は、と心の中で問いかけずにはいられません。本当に自分はクリスチャンとして正しい道を歩んでいるのかと、仕事やこの世的な雑念にかまけ神を第二にしてしまおうとする自分の為に一生懸命祈り続けてくれる妻と子供達、そしてそんな私をも決して見捨てようとはしない神。知らず知らずのうちに私の生活は、信仰なくしては考えられない方向へ向かっているようです。私が神を選んだのではなく、神が私を選んでくれたのだと信じ、神にすべてをゆだね今日も私はこうして生かされている事を心より感謝します。『あなたがたの会った試練で、世の常でないものはな い。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか試練と同時にそれに耐えられるようにのがれる道も備えて下さるのでる。』(第一コリント十章十三節)

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サンディエゴに来て

佐藤 竹夫

  ・出身地

 私は、関東の北部の群馬県館林市からまいりました。館林は人口七万人の小さな市です。古くは現在の皇后であられます、美智子様の出身地で、新しくは、この間スペースシャトルで宇宙に行かれた向井千秋さんの出身地でもあります。

  ・出身教団と教会

 私の、出身教団は福音伝道教団と言います。関東の北部を中心に群馬、埼玉北部、栃木、東京に四〇ぐらいの教会が伝道を行っています。八〇数年前にイギリスの宣教師でバーネット先生という方が、日本の農村での伝道を始めたのが、この福音伝道教団の始まりです。みなさんもご存じかと思いますが、羽鳥明先生もこの教団の出身でバーネット先生にお世話になったと聞いています。羽鳥先生は現在も私達の教団の顧問をなされていて、年に一回教団で開催される、聖会には毎年講師として出席していただいています。私はこの福音伝道教団の館林にある館林キリスト教会から参りました。毎週、約一〇〇名程度の方が礼拝に出席しています。小林牧師と二人の副牧師の先生が、館林と隣の町の邑楽、そして埼玉の杉戸町で開拓伝道を行っています。

  ・サンディエゴ・キリスト教会に来るきっかけ

 このサンディエゴ・キリスト教会に来るきっかけは、羽鳥先生の次女の恵理子さんと、ワイフが親しいのと、恵理子師が神学校の時に、館林教会で実習を行ったので、私も親しくなっていました。たまたま、この八月に、恵理子師がアフガン伝道の報告の為に館林教会に来た時に、サンディエゴでの教会を教えて欲しいとお願いした所、羽鳥先生ご夫妻にこの教会を薦めて頂きました。

  ・生い立ち

 私は一九五五年の二月に東京で生まれました。小学五年生で、父親の仕事の都合で群馬県の館林に越しました。一人っ子で、両親が共働きのために、あのころよく言われた「カギッコ」でした。いつも家に帰っても誰もいない部屋に一人でテレビを見て育ちました。

  ・教会に通い始めたきっかけ

 教会に通い始めたきっかけは、中学三年生の時でした。同じクラブ活動の仲間に、本の大好きな友達がいて、聖書に興味をもち、たまたま、クラブ活動の顧問の先生が、クリスチャンであったので、特別集会に誘われました。友達が一人で行くのがやだったのと、私は家に帰っても一人でしたので、一緒に教会にいきました。伊沢記念男先生という少し体の不自由な先生の集会でした。その時には、なんとなく居心地がよさそうなのと、家に一人でいてもしかたないので、土曜日の夜の学生会に通い始めました。学生会の後で、古い会堂の掃除を行い、遅くまで話し込んでいたのを覚えています。お話しよりも、終ったあとの教会の友達との話し合いの方が一番楽しかったと思います。

  ・救われるまで

 学生会に通い初めて、いやな事がありました、お祈りです。祈らされる事はあまりないのですが、祈りの時は指名されるのではと、ドキドキしていました。まだイエス様を信じていない間は、祈りの後の「アーメン」も1年ぐらいは言えませんでした。信じるきっかけは、毎年夏に教団全体で行われるバイブルキャンプでした。高校一年の初めて参加したバイブルキャンプで、真剣にイエス様を信じたいと考えるようになりました。しかし、クリスチャンになりたい気持ちとは裏腹に、罪を侵さないようにと考える自分自信が、余計に罪が見えてきて、教会に行って罪を知らなければ良かったとさえ考える事もありました。自分のいやな面ばかりが余計に目についてきて、信じる事が出来ませんでした。とうとう、一時期教会を休む結果になってしまいました。しかし、教会の友達、伝道師の先生、また母親のすすめもあって、また教会に通い初めました。

  ・信仰を持った時

 イエス様を信じたのは、高校三年生の時のバイブルキャンプの時でした。館林の小林先生がたまたま、高校生の担当でしたので、いつも聞いている、十字架に付けられるイエス様の話しでしたが、その日の小林先生のメッセージは、いつもとは異なって私に聞こえました。その日のメッセージで、本当にイエス様が、私の為に十字架について下さった事が自分自身の痛みとして感じました。

  ・就職

 七三年四月に就職したのは、東京の大手のコンピュータメーカーでした。東京に家から、通勤は無理でも、土曜日の休みが多いので、毎週帰れば良いと考えていました。この頃は、教会へは続けて通っていれば良いという考えしか有りませんでした。会社に入社して三ヶ月の研修期間が終わった時に、配属先は大阪になってしまいました。

  ・大阪での会社生活

 大阪での生活も神様の守りのうちにある事を感謝しました。それは、大分後になって分かった事ですが、紹介された大阪の教会と同じ教団の教会に、自分の直接の上司が通っていて、その教会の役員をしていた事です。クリスチャンであるという事は話しには聞いていたのですが、同じ教団だとは思いませんでした。四〇〇〇人の会社でしたがクリスチャンはほんの一部だと思います。その中にあって、直接の上司がクリスチャンと言うのは神様の御配慮だなと感じました。その上司の尽力により、一年三ヶ月という短い期間で、大阪から東京に戻る事が出来ました。

  ・大阪の教会の様子

 大阪での教会生活は、豊中にある日本イエスキリスト教団の服部希望教会にかよいました。ここの牧師先生は、六〇才で献身し私が行った時には、八〇才になっていました。礼拝は三〇名、日曜学校は二〇名ぐらい、夜の伝道会が五、六名でした。クリスチャンホームが五、六家族で、礼拝の半数以上をしめていました。その年、七三年の一二月のクリスマス祝会で洗礼を受けました。館林からの紹介状で、既に洗礼準備が完了している事が相手の先生にわかっていたので、洗礼準備等はまったく無しに、洗礼を受けました。

  ・東京に戻って

 大阪から一年三ヶ月で東京に戻り、五年ほど自宅近くの職場に通う事が出来ましたが、八〇年の秋から赤坂の本社に勤務が変わり、東京に通う生活が始まりました。始めのうちはそれほど忙しくはありませんでしたが、仕事に慣れてくると仕事の量も増えて、夜遅く帰る事が多くなりました。土曜日も出勤する事が多くなってきました。

 八一年に結婚して、続けて男の子供が二人与えられました。仕事に対して不満はなく、給料も満足していましたが、時間を取られすぎる事が気になりだしました。地元に戻れば、少しは時間的に余裕が生まれ、家族の交わりや教会の奉仕に役立つのではないかと祈り始めました。

 八四年の秋に新聞広告で東京三洋電機のシステムエンジニア募集を見つけ、ワイフと相談をしました。仕事に不満はなく、給料も満足している生活から、仕事は一からやりなおす可能性があり、給料もダウンする。良い条件といえば、本社が隣の町の大泉にあるので、転勤の可能性が少ないのと、通勤が楽になる事でした。二人の意見は転職に決まりました。八五年の一月から東京三洋電機に通い始めました。

  ・あてが外れる

 いままで、色々の条件を考えて自分の人生を判断してきました。東京への就職もそうですし、八五年の一月から大泉の東京三洋電機に転職した事もそうでした。しかし、人間的には、色々あてが外れました。

 一つは、大阪の三洋電機と合併になった為に、大泉が本社でなくなってしまい、転勤があるかもしれない事です。今回は転勤ではすまずに、このサンディエゴに来ることになりました。

 もう一つは、転職する時にそれまで東京のコンピュータメーカーで大型の機械を担当してきたので、三洋電機に入っも同じ機種を担当すると思っていたら、実際には小さなパソコンの開発担当になった事です。今までやってきたものが役に立たず、全然異なった勉強が仕事の為に必要になりました。

 そして、転職をしても一向に仕事量が減らない事です。毎月の様に残業を行って来ました。今回も毎日、朝七時から夜七時までの勤務になっています。

  ・感謝な事

 でも感謝な事があります。それは、三洋の職場で、パソコンを習得出来た事と、ワープロも経験出来た事です。館林の小林先生の聖書の学びにパソコンが多いに役に立っています。このパソコンの学びをお手伝い出来たは、転職によってパソコンを学ぶ事が出来たからと考えてします。

 つまり、色々な場面で人間的にあれこれ考えても、全てのことは神様のご配慮のもとに成り立っていると感じています。

 今回、このサンディエゴの地に来た事も、次の神様の計画の為にある事を信じて、ここでの生活を神様への祈りの内に従っていこうと思っています。

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イエス様に出会ったよろこび

モラレス 初恵

 私は日本人の父と在日韓国人の母から生まれました。若い頃の母は財産家の娘でしたが、祖父は祖母や娘には愛情を注がず、妾を囲い、祖母はそのことを苦にして、病気になり、悲しみながらこの世を去りました。母は祖母の愛を失い、さみしい日々が続きました。父もまた、貧しい大工の息子で、頑固な祖父と折り合い悪く、家を飛び出し、さみしかったようです。そんなふたりが出会い、母は祖父の反対を押し切り、すべてを捨てて駆け落ちまでして、結婚しました。母は貧しくても幸せな家庭を築きたいという願いを強く持っていました。しかし、母の願いもむなしく、価値観の違いや、父の兄たちからのねたみ、韓国人に対する偏見なども重なり、私が生まれ、物心ついた頃には、父と母は中が悪く、いつもケンカばかりしていました。

 私は頑固な父が私たちから去ってくれたらと、父を愛せず、さりとて、憎みきれず、苦しみ続けました。母は「この世に神などない」と言っていました。私は、母の気持ちは良く分かりましたが、「神はいる」と思っていました。

 社会に出て、世の乱れを目にし、家庭でも、社会でも、心の平安が得られず、私は、結婚して心の平安を得ようとしました。しかし、いざ結婚となると、相手の男性が父とダブり、信じることができず、婚約破棄をし、私の苦しみは一層増しました。

 そんな時、友人に誘われるまま、私は、まことの神様に背を向け、ある宗教団体に入りました。けれども、そこで、恐ろしい体験をし、その宗教から逃げ出しました。それからの私は、「なぜ、アリはアリで、私は人間なのだろうか。私は一体どう生きればいいのだろう」というようなことを考えるようになり、町をさ迷い、悪いサークルに誘われたこともありました。

 会社を辞め、デザイン・スクールに通うようになりました。しかし、私の絵は、幼い頃のように波があり、仕事は無理で、就職先も決まらないまま、デザイン・スクールの卒業を迎えるようになりました。卒業のパーティに出かけた時、アメリカ人の主人と出会いました。私は英語が話せず、主人は日本語が話せず、私は、今までの男性以上に主人を信じられずに思い悩んでいました。主人は私の思い悩む姿を見て、"To love is to believe."と言ってくれました。私は、生まれて初めて、「愛する」とはどういうことかを聞いたような気がしてハッとしました。それから、主人を信じるように務め、信じることができ、私たちは結婚しました。

 主人は、主人と私とを結びつけたのは神様だと言っていました。ある日、私は主人に、神様のことを尋ねました。主人は、創世記を開いて、熱心に話してくれました。その時、私の胸に、なつかしく熱いものが込み上げてくるのを感じました。クリスチャンの保育園に通っていた頃や、子供の頃、神様に語りかけていたことを思い出しました。母は、教育のためではなく、近所で、安いからという理由で、そこへ私を預けたのです。私は、母から捨てられると思い、毎日会堂中響き渡るぐらい大声で、泣いていました。あまり、泣くので、私は、そこには少ししかいられませんでした。しかし、その時から、私は神の存在を認めるようになり、夜中に、父と母が言い争いをしているのが聞こえてきて、目を覚ました時など、「神様、今、私と同じく、世界中で苦しんでいる人がいるのですね」と語りかけたりしていました。私の主人は、さみしい思いをして育っていました。主人と私は同じ年月に生まれ、私が、神様に語りかけたことばの中のひとりに、主人もいたかも知れません。

 サンディエゴに来て、クリスチャンの幸代さんに会い、スモール・グループの聖書研究に導かれました。この学びによって、まことの神様はイエス・キリストの神様以外にないことを知りました。しかし、十戒に言われているように「父を敬う」ことができず、イエス様を心にお迎えすることができませんでした。けれども、いろいろな集会に出、教会の礼拝や、木曜集会で、説教を聞き、聖書を学ぶうちに、父が、私より、多くの重荷を背負って生きてきたことが分かってきました。父を敬うことができないのが、神様から離れた自己中心の罪からきていたのです。イエス様は、私のこの罪のためにも十字架の上で死なれました。私は、心からイエス様を信じて、自分の罪を悔い改め、イエス様を私の救い主と信じることができました。また、私は、母が韓国人でしたから、自分が他の日本人と違っているのではないかという一種の劣等感を持っていました。それで私は、多民族の国、アメリカに行けば、自分の場所が見つかるのではないかと思っていました。しかし、私が求めなければならないのは、愛と真実の支配する、真に平等な神の国だということもわかりました。

 ニューメンバー・クラスに参加して、家でテキストを学んでいたグッド・フライデーの夜、ヨハネによる福音書一五章を読んでいました。そのころ、受難週を前にして、イエス様の十字架のことをスモールグループで学んでいました。この箇所がイエス様の十字架を前にしてのメッセージだと思うと、ここを読みながらイエス様の愛が私の心にあふれてくるのです。聖霊が、私に喜びを満たしてくださり、今まで、隣の人のものをうらやましく思っていた私は、生まれて初めて、人間のしあわせは、物質にはよらないことが分かり、物欲が薄れました。

 ふりかえってみると、神様は、私の人生に何度も働きかけていてくださいました。それなのに、私は偶像礼拝をし、まことの神様の栄光を傷つけ、神様から与えられた命や健康を感謝もせず、つまらないことで悩み、苦しみ、自分勝手に生きてきたのです。神様はそんな私にさえ、愛を注いでくださったのです。詩篇百二篇八、九節に、「主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみゆたかでいらせられる」とある通りです。私は、今まで、聖書を知らずにいましたが、キリストは、聖書のによって、私に、はっきりと語りかけてくださったのです。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのところにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ十一・二八)

 イエス様とともに、私を愛してくださったクリスチャンの皆さんに感謝します。私も、皆さんの模範に従って、まず、身近な家族を愛して、そのために祈り、イエス様の愛を身をもってお伝えしたいと思います。日本の父に、母に、姉妹に、そして友人に、すばらしい救い主イエス様に出会った喜びを伝えたいと願っています。

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偶像礼拝から真の神を信じて

角内 八重子

 「今日アメリカにあって一番良い事は何でしたか」と聞かれましたら、私は答えます、それは私はアメリカに来た故に救主イエス様にお会い出来ました。そして主に導かれて罪を赦され、主イエス様が救主であられること信じました時からこの様な私でさえ受け入れ愛してお守り下さってますこと心より感謝申し上げておりますと言えますことです。私の父は若い頃、明治時代にフランスにて洋菓子を学び帰国後フランスベーカリーの名をもって製造経営をしておりました。私は四人姉兄の末っ子に生まれました。そして二〇才の秋に徳島同県人の主人と結婚しました。二人の子供が与えられましたのに長男は幼い時に亡くなりました。それは終戦になる前の年のことでした。そして終戦後一年半位の頃に主人は無事生還して帰国してくれました。やっと娘と三人暮らすことが出来たのです。その後、主人の仕事の都合上関西に出てサラリーマン生活から商売に切り替え喫茶店を開業致しました。そして一二年後主人は胆石の病がもとで亡き人になりました。それから一年半後、三世と結婚した娘夫婦が子供三人の教育のためアメリカに渡りたいので、私も共に行くようにとすすめられましたが言葉の通じない外国生活を考えて思案にくれました。

 そのうち主人の三年法事にお墓も建て私は日本に残ってお店を続けようと考え決めた矢先に、娘家族五人の乗った車バンが高速道路で居眠り運転のトラックに衝突されたと知らされました。私は本当に驚き動転致しました。でもこの様な事故の中、五人共に軽い怪我ですみ守られました。車バンは二度と使えませんでした。でも私は誠にありがたくて思わず神様に心から手を合わせて祈りお礼を申し上げました。この事があってからは、もう生きるも死ぬも家族と共にと思い決心させられました。私の甥は公務員なのですが、私の思いを話して一方的に押しつける様になり店も権利もそのまま任せてその年の忘年会がお別れパーティとなりました。翌年の一九七八年一月十日に何一つ知らないアメリカの地ロスアンゼルスに着きました。サンディエゴに住居をかまえて孫達と一緒似生活をすることになりました。生活も落ち着いた頃から娘は日曜日ごとに子供達を教会に連れて行く様になり、私もつい一緒に行く様になっていました。その内私も、聖書を開いて読み賛美歌も口にすることが多くなって時には涙を流していました。それが何か私にはまだ分かっておりませんでした。

 渡米して約三年後、先祖と主人の法事をかねて帰国をいたしました。ところがその法事を行っている最中に、私の心が全く空白となり、空しい思いでその席にいることがやっとでした。こんなことは私には初めての事、この不思議な思いをお話出来るのはと考え以前アメリカでお会いした神戸の小豆(しょうず)牧師に聞いていただこうと連絡をとり、特急で神戸の教会に行き小豆牧師に私の心の告白をいたしました。牧師は私を見られて 「あなたはもうすでにイエス様が導いておられます。」と言われまして聖書を開いて御言葉を下さいました。『信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』使徒十六章三十一節。私は御言葉を聞きながらふと『わたしは道であり、真理であり、生命である』ヨハネ十四章六節、主の御声が聞こえたように思いました。それより毎日神戸西部教会へ通い小豆先生より新約の学びをお受けいたしました。主イエス様のこの世のお苦しみはすべて私のためであったこと、自己中心の思いと生活の罪、神様をなきが如くの先祖祭りの偶像礼拝罪、私自身弱い小さき者であることを認め悔い改めのお祈りをさせていただき潔め続けられることを特に願いました。救い主イエス様を信じ受け入れる良き日を小豆牧師がお決め下さいました。一九八一年七月一九日に洗礼の御恵みにあづかりました。主のあわれみとみ恵みにより平安をいただきました。

 八月に再び渡米致しました。私にはまだ家に仏壇がありました。真実なる神様に対して私は忠実である証しをなすべくサンディエゴ教会の大川先生に処理のお話をいたしました。その後で、家でメモリアルデーを行って頂きましてすべてを取り除いて下さいました。私にはあわれみと御恵みといつくしみ深い神様への新しい信仰生活がスタート致しました『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、すべて添えて与えられる』マタイ六章三三節 この小さき者にも希望を与えて下さり七十才を越えアメリカ生活も十数年になろうとしてますが、主は試練の時も決してお見捨てにならず助け導いてくださる確信を得させていただいて日々感謝のお祈りを申し上げております。『主に感謝せよ。主は恵み深くそのいつくしみは永遠に絶えることがない。』(詩篇百三十六編一節)

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つまづきから信頼へ

レイ 幸枝

 私が初めてイエス様を知ったのは、小学六年生の時でた。近所のプレハブ建ての小さな教会で土曜学校が開でれていて、同じ小学校に通う子供たちと聖書や賛美歌開習いました。先生に「今日は○○ちゃんお祈りして下歌い」と指名されると、何のためらいもなくみんなの前下お祈りをしたものです。奥多摩のバイブルキャンプに前参加しました。他の二、三の教会と合同だったためいにいろ刺激を受けた事を覚えています。しかしこのキャいプで私は牧師先生につまづいてしまったのです。部屋ャりを知らされて、各自部屋に落ち着いた時、私ともう屋とりの友だちは布団を敷くことにしました。シーツとうカバーがないのに気づいたため、キャンプ場の事務所と行き、六十円払ってシーツと枕カバーを借りてきました所、布団を敷き終えて、夕食まで時間があったので、皆しドッジボールをして遊びました。それで部屋に帰って皆ると、ちゃんと人数分のシーツと枕カバーが配られててるのです。私と友だちはわざわざ事務所に行き六十円てってきたのに…。そこで私は牧師先生のところに行って六十円返してもらえるようにならないかと頼みまし た。先生は私の話を聞いてはくれたのですが、その後いっこうに六十円は返って来ませんでした。すると私は、自分が早とちりをして事を進めてしまったために損をしてしまったのに、「先生にたのんだのに、何でお金を返してもらえないんだろう。」と先生を責めるようになり、信じられなくなってしまったのです。その後、土曜学校には続けて通いましたが、ある時「この教会は本当に小さいので、もっと大きい教会が建てられるように、皆なるべく沢山献金して下さい。」という先生の言葉にまた疑問を感じ、「私たち子供の五十円や百円の献金が教会を建てるのにどう役にたつのだろう?」と思い、ついには先生が「もっとお金を出せ。」と言っているように思って、土曜学校にはそれっきり行かなくなりました。それ以来、つい六ヶ月前まで、私は、教会に行っている人たちはおかしな人たちだと思うようになっていたのです。

 中学生の頃は、教会から離れて、大好きなバレーボールに打ち込みました。朝練と放課後の練習、日曜祭日の練習試合と、厳しいきまりの中で悪い事をする時間の隙間もなく苦しい練習に耐えてきました。セッターに選ばれ、チームが横浜で一位になって、すっかり自分の力でもあるなどと鼻を高くしていました。私はいつも強気で気の弱そうな人を見ると「私が鍛え直してやるわ」くらいの気持ちもあったのですが、高校生になると、部活動をしていない、いわゆる「帰宅部」の生徒がアルバイトをしたり、ディスコで遊んだり、ボーイフレンド、ガールフレンドと一緒にいちゃいちゃ登下校したりするのを見ると、年頃のわたしはひどくうらやましくって、私はそういった面で人より劣っているんじゃないかと不安にも思いました。ある日友だちからディスコに誘われました。彼女はオールナイトで家に帰らないつもりだったので、友だちは親に「○○ちゃんの家に泊まりに行くから。」と嘘をつくところ、私はわざわざ母に「オールナイトでディスコに行ってもいい?」と聞いてしまうくらい真面目な少女でした。その頃は「だめです」と言われても部活があったし、ディスコにもそれほど興味がなかったので、母には反抗せず、ディスコはあきらめました。

 さて高校を卒業して私はある電気メーカーの一般事務職に落ち着きました。今までがんばってきたバレーボールがなくなって、今度は仕事にがんばろうと思いました。しかし仕事は男子社員のお手伝いみたいなもので、バレーボール程やりがいもなく、仕事はテキトーで、いまは先生の指導下にもいないし、高校でできなかった事を思い切りできる時と思い、親に嘘をついてディスコでオールナイトしたり、私は皆より劣っていると思う事をとり戻すごとくに、あれこれとやってみては失敗し、後悔し、皆と同じレベルの女の子になったのか一つも手ごたえも得られませんでした。転職したり、せっかくボーイフレンドができたけれど失恋していたたまれず、京都へ三泊四日の一人旅にでかけたり、ブティックで一度に十万円分の洋服をクレジットで買ったり、親友と海外旅行に行ってみたり、フリーの身となってパブでアルバイトして変なオヤジにつきまとわれそうになったり…。こんなにいろいろとOL生活六年間の中で、世間なみの、いいえ、それ以上の生き生きした女性になりたくてためして来た事だけど、結局昔のように安定した気持ちや生活は得られず、それどころか世間の汚い面を否定できず、すっかり「そういうもんだ。」と思っていたので、つらい思いをしてもそこから抜け出す道も見いだせなかったのです。それでもまだ心の隅には正しさ、まじめさ、純愛にあこがれる思いが残っていました。これも神様が私の良心にいつも語りかけて下さっていたのでしょう。そして年に一度か二度、子供のころの土曜学校を思いだし、「イエス様…。」とお祈りする事がありました。

 このお祈りが聞かれたのでしょうか、神様は私に素晴らしい主人とのめぐり会いを与えて下さいました。その日はお給料日でいつも行く駅前のCDレンタルショップに大好きなブラックミュージックを探しにいきました。そこに白人と黒人の男性がいて黒人の方が私に英語で話しかけてきたのです。私は緊張しながら必死で英語を話しました。いつもなら"I can't speak English."の一言でさよならなのですが…。電話番号を聞かれたのですが、私が彼のをもらって別れました。それから一週間して彼に電話しました。米軍基地に連れていってもらう事になりました。まじめで良い人そうな彼は本当に私を大切にしてくれました。そして基地のクラブ内でのアメリカ人男性に対するふるまいも教えてくれました。変に彼らと目を合わせるとダンスの誘いと思われるから下を向いて目を合わせないようにとか。それに私がトイレに立つ時も注意されて。実際彼らは声をかけてくるばかりか通りすがりにおしりをさわったり、腕をつかんだり で、日本人ばかりのディスコにはないものを体験しました。私は他のアメリカ人の誘いには乗らず、やさしくてあたたかい彼のそばについていました。彼は親のようにして私を守ってくれました。そのうち彼は米海軍の牧師の下について仕事をしていると教えてくれました。私は久しぶりに土曜学校のことを思いだし「イエス様…。」と心の中で叫びました。それから彼は毎日私をデートに誘い、私の二四才の誕生日、一九九一年五月二六日に結婚しました。

 同じ年の八月、主人の仕事の関係で私達はサンディエゴに移ってきました。一ヶ月のバケーションを終え、主人は再び仕事を始め、私は家でひとり暇をもてあましていました。サンディエゴに来る直前まで仕事をしていた私にとっては良い骨休めでもありましたが、急に暇になって、以前の仕事をしていた自分がうらやましくなり、時々主人を困らせました。そのうち主人の船が五日間の航海に出る事になり、主人は私に日本人の教会に行きなさいと言うのです。しかし私は「教会に行くような人は私とは違う人種で、少しおかしな人達だから」と言いました。主人は「ぼくは教会で働いているけれど、おかしな人か?」と聞きます。「いいえ、あなたは素晴らしい人です」と私。もう教会の悪口は言えないと思い、今度は「私には宗教などいらないし、天国に行きたいから良い事をするんじゃなくて、私自身が良い事をしたくてするんだ。」と、イエス様の名により祈りながらも、神様を否定してしまいました。このころ、まだ私は本当の救いの意味を知りませんでした。良い行いにより天国にいけると思っていたのです。主人は「無理に教会に行かなくても良い。」と言って話は終わりました。けれども航海の三日前頃彼は、友だちのいない私を一人家において行くのは心配だったようで、「教会に電話して君の事を話しておいたから、近いうちに連絡があるだろう。」といってきました。私はいやだと言いつつも、その電話を待っているうちに『一度教会に行ってもいいかなぁ。』と思い始めました。主人が出発する前日、ピータース道子姉が電話を下さり、「今からちょっと良かったらそちらに行ってみようかしら」と言われるので、家に一人きりだった私は「はい、かまいません。」と答えました。彼女が家に来るともう私は嬉しくて、教会に通う人を偏見の眼で見ていたにもかかわらず、彼女の明るさとやさしさを感じて、「今度教会に行きますか?」との問いに 「はい、行きます。」という言葉が私の口からすべり出ました。

 教会に行き始めると、子供のころに歌った頌栄「父・み子・み霊の」や「主の祈り」は、一語一句私の覚えている通りそのまま歌われ、祈られているではありませんか。先生のメッセージを聞くたびに、私の内にある罪があからさまになり、特に親や妹、弟につらくあたったこと、OL時代の私と家族は水と油のようでした。そのためにどんなに皆を傷つけたかと思うと涙が出るほどです。

 「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな 内側から出て人を汚すのです」(マルコ七章二一〜二三節)この汚れた私がどうして救われ天の御国へ行くことができましょう。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ六章二三節)神様は私達に永遠のいのち主キリスト・イエスをただで下さると聞き、そのあわれみ深い愛は私の想像を絶する愛で、その偉大な方こそが私を造り、生かしてくださっていることを感じました。そして、ようやくこのみことばにより、良い行いをすると天国に行けるというのでなく、主イエスを自分の救い主と信じ、受け入れることによって救われるということがわかりました。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ十章九、十節)また救いとは、死んでも天国にいけるということだけでなく、信じた者は罪が赦され、神の子とされ、キリストが心の中に住まわれ、永遠の命をすでに持っており、さばきにあうことがなく、死から命に移っているのです。私が間違って思いこんでいたことよりも真実はなんて素晴らしいのでしょう。クリスチャンである主人を用いて、私を救いに導いて下さった神様に心から感謝いたします。

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私を導いてくださった神様

横内 操

 中学三年生の時、ひとりのアメリカ人と知り合いました。東京のはずれ、東久留米に、クリスチャンアカデミーというアメリカンスクールがあり、彼女はその学校の高校生でした。私は、彼女に英語を教えてもらおうと、週に一度、学生寮の彼女の部屋に、行っていました。でも、いつも話すことは「神」「キリスト」「天国」「地獄」など、私には訳のわからない話しばかりでした。「死んだ後どうなるの?」と尋ねられても、すぐに答えられるはずもありません。その頃の私は、クラブ活動に熱中し、自分を理解してくれる友にも恵まれ、この世的には、「充実した毎日」をすごしていたからです。

 私が高校生になった時、彼女はアメリカに帰らなければならなくなり、私を、その学校でしている日本人の礼拝に連れていってくれました。私はそこで初めて聖書を開きました。実際は、自分ではどこを開いて良いかわからず、ほとんど隣の方が開いてくださったように思います。人数が少ないせいもあったのでしょうか、私は大歓迎を受けました。そして、何かとてもほっとした、暖かいものを感じました。教会に行き始めて、改めて自分が生きている意味を考えるようになりました。ですから、逆に友に誘われて創価学会に行ってみたり、政党がバックになっている集会に行ってみたり、私なりに、人生の意味を真剣に求め始めました。

 高校二年生の時に、私に良く話しかけてくれるクリスチャンがいました。彼女は私を、Hi-B. A.という高校生の集会に連れて行ってくれました。その集会で、私は、スタッフの方や、他の多くのクリスチャンの高校生と知り合うことができました。皆がとても力強く、満たされているように見えました。集会の中に、目には見えないけれども、もっと偉大な方が、皆を喜ばせておられるのだということが分かりました。私は、その偉大な方、私たちをいつも愛し、励ましてくださる方を真剣に求めてみようと思いました。その時から、他の団体には足を運ぶことをやめました。

 その高校生集会で、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ三・三)ということを知りました。そうして、何日かした後、教会で、秋の特別伝道集会がありました。その最終日、招きがありました。「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでもわたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(ヨハネの黙示録三・二十)「今、イエス様をお迎えし、心の中に入っていただきましょう。」牧師先生の声がしました。私は素直にイエス様を受け入れました。そして、わかりました。私が教会へ行った時に感じた暖かさ、高校生集会で出会ったクリスチャンの力強さの理由を。それは、神様の愛でした。私がイエス様を信じて救われたのも、神様の愛によってだったのです。『神は、実にそのひとり子を、お与えになったほど に、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。』(ヨハネ三章十六節)イエス様は私の罪のために十字架で死んでくださり、それによって、私は永遠の命を持つことができたのです。

 いままでいろんなことがありました。長い間、神様から離れてしまったこともありましたが、こうして教会に戻ってくることができ、守られてきましたことを、感謝しています。『あなたがたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。』(エペソニ章八節)

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キリスト、私の救い主

川久 祐子

 教育熱心な両親の元で育てられた私は、幼稚園の時から始まって、小・中・高校、大学、そして会社にはいるまで、ずっと入試を受け、希望のところにすすんできました。努力した成果がいつも得られてきた私は、他の人の目からみたら、きっと自惚れの強い、高慢な人間になっていたのだと思います。自分の力で、すべての事を解決できると思っていたのです。

 学生時代、交換留学生としてドイツで暮らした時、ホームスティ先の家族とともに、日曜の朝、教会へ通いました。教会は、素朴な美しさをたたえていて、人々の心の安らぎの場となっていました。人々は、過ぎた週の無事を感謝し、次の週もまた安らかに暮らせるよう祈るのです。その素朴な信仰は、太陽が朝東からのぼり、夕方西に沈む事と同じように、とても自然なことのように思え、これまで人間の力がすべてをコントロールしていると思っていた私は、人々のまったく別な生き方を見て、深く感動しました。

 結婚し、主人の赴任に伴い、再び西ドイツに行った私は、そこで子どもを産み、育てている時にも、ドイツの人々の神への感謝の姿を日々見て暮らしてきました。

 息子が小学校へ入学した時のことです。校長先生から宗教の授業はプロテスタントにしますか、カソリックにしますかと聞かれました。私が「無宗教です」と答えると、校長先生は、まるで「あなたは男か、女か」との質問に、私が「男でも女でもない」と答えたように、びっくりして私の顔を見つめ、「無宗教」の意味をはかりかねていました。それでも、「どちらかを受けた方が良い」とおっしゃったので、仲良しの友達がそうだという理由だけで、カソリックの届けを出しました。二年後、娘が入学した時は、教会が近いという理由で、無節操にも今度はプロテスタントにし、息子もプロテスタントに変えてしまいました。その後週二回の宗教の時間、毎日曜日の教会、聖句の暗唱グループなどを通して、また、プロテスタントのシスターの暖かい助けのおかげで、子どもたちは神様の存在を何の疑いもなく受け入れる事ができました。私も、バイブルクラスに出たり、シスターとの交流を深めてはいましたが、神様、イエス様を「私の神様」「私のイエス様」として、個人的、また、自覚的に受け入れることはできませんでした。

 十三年暮らしたドイツを去り、半年、東京で家を借りて住みましたが、その家が牧師先生の留守宅であったり、サンディエゴに越して来て親しくなったアメリカ人が敬虔なクリスチャンであったり、子どもを通して仲良くなった日本人のお友達がやはり心優しいクリスチャンであったりと、私の回りには、どこの時点ででも、神様がその存在を知らせるべく、傍らに立っていてくださっていました。

 昨年から七区のバイブルスタディにもかかさず出ていますし、今年になってからは、教会にも毎週来る事ができるようになりました。神様が、わたしにどんどん近かづいていてくださっているという気がしました。今度は、私が、神様に近づく番です。『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ五九章一節)どんなに世の中のしあわせを手に入れても、私が神様を閉め出していたなら、それは何になるでしょうか。私を愛して、私のためにイエス様による救いを備えてくださった神様を受け入れないことが、私の最大の罪であることを教えられ、私は心から悔い改めました。単に、宗教としてでなく、感情的なものだけでもなく、生きて、私の心の中に住んで下さる神様を、受け入れる決心ができました。『すなわち、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ十章九、十節)これからは、キリストとの新しい関係、交わりを喜びながら歩んでいきたいと願っています。

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神様の完全さを知って

西井 孝子

 幼い時より、あまり苦労もなく育った私は、したがって人生に対してもさして深く考えるでもなく、生死に関することに対しても真剣に取り組んだこともありませんでした。しかし大学を卒業した翌年に父が亡くなり、それまで与えられることの多かった私にとって、生まれて初めての大きな損失が父という一番身近な人間でした。しかし若かった私は、それでもまだ自分の未来が輝いているように思え、人の死について深く考えることなく、その翌年結婚し子供を育てるという人生でも最も忙しい時期に入っていきました。

 ところが、母親になって全く無力な我が子を見ているうち、自分の人生が自分に対してだけでなく、子供に対しても責任があるということを身をもって感じるようになり、また、自分の「死」に対してもとても恐れを感じるようになってきました。結果的にはどうもなかったのですが、私の胸にしこりが見つかった時があり、そのことが胃癌で亡くなった父の死と重なり「死」に対して全く無防備な自分を知ることとなりました。そして父は病名を告知されていなかったけれど、もし私がそうなった時にそれは嫌だ。しかし果たしてその事実を聞いて冷静に受け入れられるだろうかという、父の死の時にあえてまた考えることを避けていた問題を突きつけられることになりました。死んだらどうなるのか。果たして天国とは存在するのだろうか。もしそうなら、私は行けるのだろうか。父の死がここに至って大きく精神的に影響を与え始めました。しかしこの問題に対して何の解決をみないまま、夫の駐在にともないサンディエゴに住むことになりました。

 アメリカに住み始めて数年した頃、英語のバイブルスタディにさそわれました。その頃ちょうど、英語を習う必要性を感じていたのと同時に、数年アメリカに住んでみて、アメリカのことをより良く知るには、その文化の基になっているキリスト教をもう少し知っておいた方が良さそうだと思い始めていた時でした。それにその頃、日本ではエホバの証人や統一協会の問題がマスコミなどをにぎわせていたので、これらの宗教とのはっきりとした違いをも知りたいと思っていた矢先でした。私は幼稚園から大学にいたるまで、カトリックの教育を受け、何年もイエス様のことは聞いてきました。しかし不思議なことにあまり聖書を読んだ覚えも無く、断片的な知識はあるものの、救いがどういうことなのか何もわかってはいませんでした。『彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない』(マルコ四章十二節)そのものでした。

 それより以前、シアトルに住むクリスチャンのいとこが訪ねて来て、ギデオン協会の聖書をくれ、ヨハネの福音書を読むようにと言ってくれていました。「ハイハイ」と言ったものの、そのまま棚に放り込まれていた聖書を辞書代わりに、勉強は始まりました。神様はあらかじめ、私の為に日英両語で書かれたバイブルを、このことの為に用意してくださっていたのでした。そのまま棚に放り込まれていた聖書を辞書代わりに、勉強は始まりました。神様はあらかじめ、私の為に日英両語で書かれたバイブルを、このことの為に用意してくださっていたのでした。

 英語ですから初めは、何度聞いても理解できませんでしたが、日英両語に秀でた友人の説明に助けられ、一、二年程続けていくうち、神様の聖さや完全さということがわかり始めてきました。人間がどんなに頑張ってみても、とうてい神様のすべてにおける完全さには及ばないということ。と同時に天国の神様のもとへ行くには、自分があまりにも罪に汚れていること。少々罪があっても、それを上まわる善行をしたからよろしいという、天秤ばかりではかられる裁きでなく、この罪が完全に赦されなければ天国に行けないという絶対的な裁きがあること。私は自分が罪人であることを知る以前、自分のことをまずまずの人間であると思っていました。しかしそれは自分を他の人と比較してのことであって、他人より少しはましか、あるいは少し劣っているかという見方しかしていなかったのです。人の作った法律はそこそこに守っていたかもしれないけれど、完全な神様のおきてから見ると、私はあまりに足りないことがはっきりとわかりました。昔は何度聞いても頭上を通過して行った、私たちの罪が赦されるのは、完全であられるイエス様が身代わりになって死んで下さる他方法が無かったこと。一度死んでよみがえって下さったイエス様を受け入れることが、自分の罪を赦していただく唯一の方法であることなどがようやく理解できました。イエス様は『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。』(ヨハネ十四章六節)とおっしゃっています。この御自身の言葉を信じ、私はイエス様を私個人の罪の救い主として受け入れる決心をしました。すると、今まで心の中で抱き続けていた、死への恐れが天国への確信と希望に変わっているのを感じ、初めて長年抱いていた問題の解決をみることができました。

 私の救いは、ドラマティックな体験を通したものではありません。しかし、聖書を学んでいくにしたがって神様の御性格をしだいに理解し、イエス様が神様御自身であられ、唯一の救い主でいらっしゃるとわかった時に、このヨハネ十四章六節が何の疑いも無く受け入れることができました。一九九〇年七月一三日、聖書を教えていただいていたメリー・ジェーン・ジョンソンのご主人デリル・ジョンソン師により洗礼を受けました。それ以来、神様が私と共に歩んで下さっていることを知る大きな恵の中にいさせていただいています。間違った教えの多い昨今の世の中で、アメリカに来て正しいみ言葉に導いて下さった神様の御計画に心から感謝いたします。

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