
サンディエゴ教会あかし集 1996年4月
=第4号= 目 次
| 主により頼む幸いな歩み | ……………… | 中馬 恵子 |
| イエス様との出会い | ……………… | ギルソン 愛子 |
| 神の力に支えられて | ……………… | ホール いづみ |
| 御言葉が光を放って | ……………… | ピータース 道子 |
| トンネルの旅 | ……………… | サベジ 賀世子 |
| 主こそ私の力 | ……………… | 武田 礼子 |
私は東京で八人兄弟の三女として生まれました。とてもにぎやかな楽しい家庭でした。私が一才の時、腸捻転をおこし両親は死亡届に私の名前を書いた程悪い状態でしたが、幸いとあと数分の命という所へ名医が来て私は命拾いを致しました。クリスチャンになって間もなく聖書を読んでおりました時に、「わたしは生まれた時からあなたに、ゆだねられました。母の胎を出てからこのかた、あなたは、わたしの神でいらせられました。」この御言葉は、まさに私の事であると感謝しました。母は熱心な仏教徒でしたが、私達をカトリック系のミッションスクールにいれてくれましたので、幼稚園に勤めるまでカトリックの世界におりました。ですからイエス様のお話を幼いときからきかされておりましたが多くの疑問があり入信しておりませんでした。そんな折り、兄の紹介でプロテスタントの主人と出会い新教の教会へと導かれ、結婚式の三日前に、罪の悔い改めの祈りを牧師夫人と共にし、主を私の救い主として受け入れ洗礼を受けました。この時の私は心の底からの罪の悔い改めのない、御利益を考えたような信仰でした。
一九六二年に「神その中にいませば都はうごかじ」のみことばを頂き主人のコロナド勤務のため初めてアメリカの地をふみました。今は立派な橋が出来ていますが、三十年前はフェリーボートに乗って教会に行っていました。日本語で礼拝を守れるサンディエゴ教会に導かれた時は本当に嬉しく、母を思わせる様なお年の一世の兄姉方の暖かいお交わり、忠実な信仰の御姿を拝見しどんなに励まされたかしれません。特に水曜日の夜の祈祷会に、畑仕事を終えられた一世の兄姉方がざらざらと荒れた手で暖かい握手をして下さった事、お疲れもいとわず真剣に教会員のため、ひざまづいて祈る姿に心打たれそれ以来、祈祷会を休まず出席する様になりました。
アメリカに来て二年目に、私にとって大きな試練にあいました。双生児の出産でした。一人は出産後すぐに天に召されましたが一人は助かり元気に成長しました。悲しみの中にありました時「神のなさる事は皆その時にかなって美しい。」という御言葉を与えられ、きっと祝福のうちに、この悲しみもある事を覚えて感謝しましたが、この死を通して生かされた息子リックが神様の御用の為に働きたいと告白したのがその九年後の事でした。悲しみを祝福に変えて下さり彼を牧師として御奉仕する者として下さった恵みを心から主に感謝しております。娘も十一才の時救われクリスチャンの主人と結婚し幸いな生活をしております。
私の救いが確信され生まれ変わったのは渡米二年後、ある新興宗教の方達がクリスチャンである事を知った私をつるしあげにして主をののしったときでした。私はクリスチャンであると自称しながら、なんと自分中心な、自分勝手な思い、心の王座にイエス様ではなく自分が主権をにぎり今まで来たのではないかと、つるしあげされののしられた時の言葉が私の心に強く語りかけられ、涙を流しベッドにひざまづいて、心の底から私の不信仰の罪を悔い改めました。「善をしようとする意志は自分にあるがそれをする力がないからである。それはわたしたちのうちに宿っている罪である。」との御言葉に自分の罪の姿を示され、主の十字架の血潮の御赦しを心から信じることが出来、それからは何かに押されている様な力を感じ、喜びと感謝にあふれ集会の出席に励み、子供をつれて伝道に励み出しました。聖書を読むのがとても楽しくなりました。四年サンディエゴに滞在、又日本に帰り一九七〇年再度サンディエゴ教会にもどる事が出来ましたがその間にもいろいろな信仰の試練の時が数々ありました。主人はアメリカの海軍に所属していましたので日本滞在中はあの危険なベトナム戦争に参加し、神様のお守りを多くの主にある兄姉方の祈りにささえられて、無事守られ通過出来た恵みを心から感謝しています。
又私も脳腫と腸癌という大病をつづいて通されましたが「主は愛する者を訓練し受け入れるすべての子をむち打たれるのである。」との御言葉の様に、主に愛されている故に受ける訓練であると感謝をもって受け止めることが出来ました。今では体もすっかり元気になり、病を通して癌と戦っている姉妹方を心から思い、その苦しみを理解する者として頂き、救われる方をおこして病の方への伝道に心をもやされていますこと心から主に感謝しています。『神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知ている。』この御言葉の様に苦しく見える事も神様は善にして下さる御方である事を確信しています。今日まで神様に守られ御手の中に生かされている、いいつくせない恵みとあわれみを心から深く感謝し、これからも生かされている身体をもって神様の御栄光をあらわす者として頂きたく祈っています。
私はキリスト教徒の両親のもとで生まれました。毎週日曜日には教会のミサに行っていました。私たちの行っていた教会は子供もみんな大人と一緒にお説教を聞きました。私は集中力に欠けていましたので、お説教の途中居眠りを始めたり紙に絵を描いて遊んでみたりして、あまりイエス様について学ばずに家に戻る時がしばしばありました。子供のための土曜学校、キヤンプだの色々とイエス様に触れるチヤンスがあったにもかかわらず、異常なほど恥ずかしがり屋だった私は、どの誘いにも「いや、いやー」と言って逃げては、親の後ろに隠れていました。それでもやはり毎週日曜に教会に通い少しずつイエス様について学んできた事や、父が仕事場での大変な困難に会った時に一言も弱音を吐かずにただひたすら神に祈り、聖書を読み、そしてその困難が後に実に神の力と言える方法で解決に至った事や、母が子供たち3人が口をそろえて「もう、そんな事までやってあげる必要ないのに」と文句を言うのを全く無視して、まわりのあらゆる老人や病人、親元を離れて寂しく暮している学生や車がなくて苦労している主婦達などに時間を費やして誠心誠意尽くしてきた事、そのような事を通して私は成長するにつれ、神様のことが少しずつ分かるようになってきました。「神様はきっといるに違いない、イエス様は愛のお方で、私たちをいつも罪から解放して下さり、守って下さる。私たちはイエス様を信じ、イエス様のような愛の人にならなければいけない」と考えるようになりました。私は自分の事を堂々とクリスチヤンと呼び、聖書は全く開かないにもかかわらず、神様を知っていると思い込んでいました。けれども今思うと私の中にいらっしゃったキリスト様はとても小さなキリスト様でした。
一九九五年の一月だったと思います。花田直和さんが私に「愛子さん、バイブル・スタディーを私の家でやりますけど、いらっしゃいませんか」と誘って下さいました。その頃の私には、聖書は、ちょっと読んでみてもなかなかよく分かりませんでしたし、無理して読んでもすぐに眠くなるのでした。「あーあー、小さい頃にやっぱり両親が言うように土曜学校とか日曜学校とかに行って、聖書を教えてもらえば良かったなー、いまさら初歩から聖書を教えて欲しいなんて、恥ずかしくて誰にも言えない」といじけていましたので、花田さんのお誘いにはすぐに、喜んで答えました。バイブルスタディーは花田さんと楠佳恵子さんを先生として、そして、私ともう一人の女の子を生徒とし、四人で始まりました。花田さんの奥様のバーバラさんが忙しい中、何時もおいしいご飯で私たちを迎えて下さったことはお互いを深く知り合うのに大変助かり、感謝しています。バイブルスタディーはリビングプレイズの賛美から始まりました。初めて聞く曲ばかリでしたが、ギターを弾きながら心を込めて歌う花田さんと、大声で「神様ありがとう」と言わんばかりにしっかり歌う楠さんに感動しながら私も歌わせて頂きました。歌いながら心の中がさわやかになる自分を感じました。次に、聖書、イエス様、私たちの罪などを学び、そして最後には、私の一番苦手だった(そして今もぎこちないですが…)お祈りの時間が毎回必ずありました。小さい頃から自分の心の中で祈る事に慣れていた私は口に出して人前で祈るということに大変大きな抵抗を感じました。最初に「祈って下さい」と言われた時は「とんでもない」ときっぱりお断りさせて頂きましたが、だんだんと断りきれなくなり、ついには「もう何とでもなってー」という気持ちで小声でほんの少しだけ祈ってみました。その時何と祈ったのか今私はまるで覚えていません。自分で祈っているにもかかわらず、私はその祈りに全く集中できないでいました。「何て言おう、あーやだ、子供っぽい言葉になったらどうしよう。」そんなことに気が取られていたのです。体全体から汗がふき出るような思いでした。「もう家に帰りたい。」そう思いました。けれども神様はそんなことを思いながら祈っている私にも働きかけて下さいました。神様は私が祈っている時、そしてその後の車で家に帰る時までも私の心をポッカポッカ暖めて下さったのです。私はびっくりしました。こんなふうに心がポッカポッカするなんてことは今まで一度も無かったからです。それから数ケ月、口に出して祈るのは前と変わらず本当に嫌だったのですが、でもこのポッカポッカがほしくて、私は車の中で運転しながら一人で口に出して祈ってみたりしたものでした。その頃神様は私の心にぐんぐんと入って下さっていました。わたしが祈ると神様は私の心をいつもポッカポッカさせてくれました。心がポッカポッカすると私は神様との一体感を感じました。そしてその事により私は自分を神様に委ねる事ができるようになりました。
今まで私はキリスト様を信じていると言いながらも何時も結局のところ、自分に頼り、親に頼り、婚約者(今の主人ですが)に頼ったりして生きてきました。学校ではただひたすら勉強し、卒業後は仕事に励んできたわけですが、でも自分の力、そして私の頼る人の力の限界をいつも感じ、何だか自分は綱渡りでもしながら、幸運にも落ちずに生き長らえているといった不安な気持ちで毎日を過ごしていました。
私の大好きな御言葉は、「すべて重荷を負って苦労している者はわたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ十一章二八節)です。私の背負っていた重荷とは私の罪のことでした。私の罪とは、神様が、そしてイエス様が、聖書の中にご自分のことをあらわし、私へのメッセージを知らせていてくださったにもかかわらず、私は、自分の心の扉を少ししか開けず、そのために、神様、イエス様の存在価値をあまりにも軽く受け止めてしまう罪でした。「わたしのもとにきなさい」と招いていてくださるイエス様は、私のそのような罪を十字架で背負ってくださったお方です。私の重荷、罪は知らぬ間に消えてなくなったのではなく、イエス様がそれを負って十字架に死なれたので、イエス様は私の重荷を十字架で引き受け、その代わりに私に、罪のゆるし、神の子の身分、そして本当の「平安」をくださいました。神様のまえに自分の罪を悔い改め、イエス様の救いを受け入れた時、私は本当の心の平安を覚えました。二七年目にしてやっと、父が昔家族に問題がある度に「神様に全てを委ねなさい」と教えてくれていたその意味が理解出来ました。私は神様にこう言えます。「神様ごめんなさい。今までの私の中の神様はとっても小さな方でした。心の扉をこれからは全開にいたします、どうぞお入り下さい。どんどんお入り下さい。これからは神様、私の心のうちで、どんどん大きくなられますように…」
イエス様のこの喜びを得させて頂いた今、私は多くの人々にも、イエス様の救いの知らせを送りたいと願います。まだ、御言葉の知識は本当に乏しいですが、もっと御言葉を学び、今の段階で私なりに出来る事から、一つ一つ始めていきたいと思います。
一九九一年に留学のために渡米した私はまことにカルチャーショックと呼ぶにふさわしいものに直面しました。特に対人関係での困難さを覚えました。でも難しい状況の中でも、夫ブルースと知り合う事が出来ました。夫と私は離れていて、手紙や電話のやり取りがほとんどでした。別に急いだ訳でもなかったのですが、一九九二年の七月に結婚しました。
結婚して夫の家族と連絡を取り合う機会が増えました。姑はクリスチヤンで、電話で証をしてくれたり、リビング・バイブルを贈ってくれたリしました。又学校のクラスメートにクリスチヤンがいて、よく教会の話しをしていました。一度クラスメートに勧われてある教会を訪ねました。でもその教会が私の住居から遠かったので、今度は近所にある日系の教会を訪ねました。その教会がサン・ロレンゾの姉妹教会でした。
姑と話したり、教会へ行ったりしているうちに、神様の事がだんだんと分かって来ました。特に十字架について少しずつ知ることが出来ました。教会に行くまで自分は十字架について何も知らなくて、どのように自分と関っているのかなど、考えた事も有りませんでした。父なる神様が大切な愛して止まないイエス様を、人間の罪を許すために、差し出してくださった事、御子であるイエス様が罪深い人間のために、十字架に掛かられて、神様と人間との関係をとりなして下さった事を知り、神様、イエス様そしてこれらの事を分からせて下さった御霊の偉大さに感動しました。
妊娠中に、体内の水分が足らなくなって、一度入院した事が有りました。昼過ぎに退院して、家に居たのですが、夕方近くになって口が、がたがたして、じっと閉じられなくなり、夫に病院の救急室へ連れて行ってもらいました。ロビーで待っている間に具合が悪化して、首が傾いたまま、身体が返り、上半身の自由が効かなくなって、診療室へ運ばれました。口をきく事も、手を動かす事も出来ず、まばたきを使って、医師の質問に、はい、いいえと答えました。心動図をとられたまま観察される時間が続きました。それまでは自分だけで祈る事をしていなかったのですが、この時に初めて独りで祈りました。その様な身体の異常さに面した事が無かったので、不安でした。神様は弱い私の様な者の祈りを聞いて下さり、数時間後に身体が元に戻り、帰宅する事が出来ました。
前述の健康上の問題が起こる迄は、自分が元気でいる事に、何の疑問を持っていなかった私ですが、この問題によって、なぜ自分がいつも健康でいる事が出来るのかを考える様になりました。きっと、とても大きな人間レベルではない力、つまり神様の力によって何時も守られているに違いないと感じました。神様はこの問題によって、御自分の存在を知らされると共に、健康であるのはとても幸福で有る事なんだよ、と教えて下さったのだと思いました。又、健康についての事だけでなく、他の色々な事に於いて、何不自由ない環境で育ってきた私でしたが、神様から離れていた私をも、その様な素晴らしい環境で包んで下さって、いつも辛抱強く、陰ながら優しく見守って下さって来た、神様に感謝と、感動を覚えました。
教会へ行き始めてしばらくしてから、聖書を自分でも読む様になりました。自分の言動に確信が持てず、自分を見失いかけていた私を支えてくれたのが、ローマ人への手紙第12章の数々の御言葉でした。又、ルカによる福音書第15章11節からのお話しにも心が留まりました。 同じ箇所から、アーサー・ホーランド師のメッセージを、テープで繰り返し聴きました。 両親の反対を押し切って渡米、結婚し、自分勝手に行動してきた私、又神様から離れて生活して来た私が、お話しの中の放蕩息子と同じ様に思いました。
教会で福沢満雄師を招いての、特別伝導集会があり、出席しました。集会の中でも、同じルカによる福音書第15章からのメッセージを聞き、その日に、洗礼を受ける事を決意しました。教会の牧師婦人である古山礼子姉に悔い改めのためのお祈りを一緒にして頂き、特に両親と神様とに謝りました。そして教会の古山隆師から洗礼を、六ケ 月の胎児と共に授けて頂きました。一九九三年七月二十五日の聖日でした。
受洗記念として古山隆師に、賛美歌へ聖書の御言葉を書いて頂きました。それはヨハネによる福音書第十五章五節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」でした。私はまだ本当にか細い枝ですが、少しずつでも大きくなれる様に神様をおしたいしながら歩んで行きたいと思います。同じ木の枝であります教会、特にこれからはサンディエゴの教会の牧師先生、兄弟姉妹の方々とよいお交わりが出来る事を感謝致します。
私の記憶の始まりは、教会の中でした。父は当時、大分県のメソジスト教会の牧師でした。『神は愛なり』最初に覚えた聖句です。疑うことなく全能の神様を信じ、第二次世界大戦が激しくなっていく中にも、両親の愛に囲まれて、兄と弟と共に、聖書の話を聞いて育ちました。戦局が悪化し、牧会不能となった父は、長崎の浦上にあったミッションスクールの教師として赴任しました。原子爆弾が投下され、中心地にいた父は、即死してしまいました。子供達を可愛がった父でしたが、女の子はひとりきりだった私を、特に可愛がってくれました。尊敬していた大好きだった父の無残な死は、十二才の私にとって、大変なショックでした。母と私達は異様な臭気がたちこめブスブスと燃え続ける瓦礫の中を、父の遺体をたづねて歩きました。焼け焦げた丸太のような死体が転がっていました。赤茶色の川の中には、水を求めて溺れた死体が、いくつも浮いていました。それは悪夢のような光景でした。怒りと悲しみで、私は心の中で叫びました。「神様、これはいったいどういう事なのですか。神様はほんとうにいられるのですか。神様なんかいない、いるわけがない。」それからの母は、四人の子供を抱えて、生活苦との戦いが始まりました。父が私に望んでいたミッションスクールに無事合格出来たのに経済上続けられず一年余りで転校し、赤ん坊だった弟の子守のため、一学期夜学に変わらなければなりませんでした。私達は、教会生活から離れ、私は神様から遠ざかっていきました。
家計の助けに、進駐軍のベースで働きましたが、知り合った主人と結婚して一九五七年に渡米致しました。ベトナム戦争が始まって、主人は海上勤務が多くいつも私は一人で留守を守っていました。人は何のために生きているのだろうか、目的と意義のある人生を生きたいなどと、その頃よく考えたものです。人生には何度か、神様に近づくチャンスがおとずれると言われますが、今まで背を向けていた神様に祈るようになりました。それは、家内安全、無病息災式の自己中心な祈りでした。その後、サンディエゴ教会の姉妹のお宅で、教会の姉妹方に出会いました。不平不満でいっぱいな胸の内を抱えて、私は教会へと導かれていきました。子供の頃聞いていた、父なる神と、御子イエス、そして十字架がクイズが解けていくように、十字架は、流された血潮は、実は私のためであり私こそが罪人なのだとわかり、今までの不信仰と罪を神様の前に悔い改め、洗礼を受けました。
でも私の心の中には、誰に持っていきようのない疑問がしこりのようにありました。どうして神様はあの苦難の時代に、献身していた父を罰するかのような方法で命を取られたのだろうか。私は父の最後を想像しては苦しみました。生きたまま焼かれてどんなにか苦しかっただろうか、今わの際に何を思ったのかしら等、永久に解けない疑問に思えました。父が可哀想でたまりませんでした。ある一世の方がこんな証しをされました。戦争は人間の欲望と憎しみの結果であり、殺し合っている人間達の姿を神様はごらんになって、どんなに悲しんで顔をそむけていられるだろうか。目の前のうろこがとれたようでした。ヨハネ黙示録を読んでいた時に、七章九節、十四節から十七節の御言葉が突然光を放つように示されました。神様は、父の最後を責任を持って守って下さった。父の魂も、また肉体の苦痛も、死を勝利されたイエスさまに支えられて、父は死の谷を平安のうちに越えていったと確信することができました。そしてまた、第一コリント十二章九節の御言葉を持って、私を自己憐憫とごうまんの枷から解放して下さいました。
心の重荷をイエスさまのもとにおろして、二十数年が立ちました。八年前に腸がんを発見され手術を受けて癒して下さった主のあわれみを思います。小さな私にも、まだ使命があるのだと、生かされていることにえりを正されます。神様から離れたら何の値打ちもない者をあえて選んで下さった。『わたしはぶどうの木、あなたがたは、その枝である。』と言われる主に、しっかりとつながって、良き実を結ぶことが出来ますよう願っています。
サンディエゴ教会の神の家族として迎えられ十五年、信仰生活を続けて来られたのは、神様が私を愛しとらえ続けていて下さるからです。罪の汚れに染まって、怒りと悲しみと淋しさを引きずって闇の中をさ迷っていた私にイエス様を信じる心を与え、ありのままの姿で救って下さった神様のあわれみの愛と、恵みを深く感謝して居ります。イエス様の十字架の血潮は私の罪のためであったことを知ってから、人生の価値観が変わり神様に罪赦されて、永遠の命を与えられ、イエス・キリストの復活のいのちの中に生かされている喜びと、感謝の人生に変えられました。毎日の生活の中に、聖書の御言葉によって、励ましと慰めと、心に平安が与えられ、神様が私の人生を守り支え、導いておられることを感謝しています。
私は大変複雑な事情の中で、昭和十年七月に東京の世田谷で生まれ、三か月のときにある夫婦に貰われて、長女として入籍されて育てられました。産みの母親には一度も会ったことがありません。世の中で一番大好きだった育ての母が十三才の時に亡くなったことが、私の人生に大きな影響を与えました。父親が戦争にばかり行き、母親とのリレーションだけしか無かったので、母の死は私にとってすべてを失ったようなものでした。笑わない子になって、母と過ごした日々の思い出の中にとじこもって居ました。十六才の時に、自分の出生の秘密を知って深く傷つきました。結婚していなかった男女の誤った関係の中で、不正な産まれ方をして捨てられたと悲観して怒りました。私の回りの人達はみんな嘘つきで、私の心の痛みは誰にも解らない、と決めつけてひがみ、自己憐憫と劣等感に陥り、人間不信になってゆきました。美容師になりたかった望みも失い、青春時代は孤独の中で、きびしい生存生活の体験で終わってしまいました。
私の人生の中で、二番目に好きな人となった主人のフランクとの出会いによって、永年失っていた笑顔を取り戻し、初めて人の誠実さに触れたように感じ、彼を信頼しました。朗らかで誰に対しても親切だった彼の人間性に引かれて、一九五九年に結婚しました。二人の子供が与えられ、主人にやさしく扱われて幸せでした。海軍兵士だった主人は陸上勤務が続きましたが、ベトナム戦争のためにサイゴンのアメリカ大使館勤務の司令を受け、一九六七年から三年近く、初めて離ればなれの生活でした。サンディエゴに移転して来て、まだ落ち着いていなかった一九七一年の六月四日、突然の交通事故のため、主人は昏睡状態のまま亡くなりました。九才の娘と七才の息子を私一人でどうやって育てるのか、大きな責任を目の前に置かれ、出口の見えない真っ暗なトンネルの入口に立たされた感じでした。今は見えないけれど、トンネルには必ず出口があると信じて、どんなことがあっても愛情を注いで子供を育てるのだと自分に言いきかせました。三か月程が過ぎて少し廻りのことが落ち着いて来た時、さめざめと泣きました。母を亡くした時の何倍もの悲しみと心の痛みを感じました。どうして私を愛してくれた二人の人が私の人生から取り去られたのだろうと思いました。
子供達が成長するに従って、経験のない新しい問題に直面し、悩み、精神的に疲れ切っていた頃、大人のハイスクールで知り合った方から教会に誘われ、訪問して下さった方が、私と子供達のために祈って下さったことも心に残りました。罪人であることを神様に認め、イエス様を主として心にお迎えして、一九八一年のクリスマス礼拝で洗礼を受けた時は、まだトンネルの半分の所にも来ていませんでした。その後、京セラに入社して八年近く働いていたのですが、心臓疾患のため、大きな手術を受け、会社勤めを辞めました。それから生活困難と病気の不安が重なった生活が続きましたが、神様がすべてを知って、見ていて下さることに信頼を置いて、一日一歩の信仰で進みました。暗いトンネルの中の旅を一人で子供を連れて歩めないことを神様はご存知で、初めから私の前を歩んで下さり、明るい出口に導いて下さいました。又、神様は私の最も必要だった信仰をお与え下さいました。小さな信仰を持っていたから、挫折した時でも前進できたのだと思います。神様の愛によって心の傷もいやされ、健康も回復され、御手の中に守られて、長いトンネルの旅を終え、還暦の年を迎えましたことを神様に深く感謝致して居ります。体験したことを役立たせ、これからの残りの年月を、まだイエス様を知らない人々に、神様の愛とイエス様を証し、福音を伝えることのために神様が用いて下さることを毎日祈っています。もう一つの願いは家族が一つの信仰を持って神の家族となって、創造主の神様を共に礼拝することです。子供と孫が私の信仰を受け継いでくれることを毎日祈っています。過去に多くの祈りに答えて下さった神様が、このこともみ心にとめて、彼らを導いて下さることを信じて、約束の地をめざして信仰の旅路を歩み続けたいと願っています。
神様が私には何を働かせて益としてくださっているのかを祈ったところ、自分の育った環境と同じ立場の子供たちの教育に携わるという答が与えられました。そして、一九八八年からUCSDで教員免許取得の準備をすすめていくうちに、昔勉強したスペイン語を使って、アメリカに住むヒスパニックの子供のバイリンガル教育という新たな道が開かれ、一九九二年からチュラビスタの小学校で働いています。その一方で信仰は薄れ、三年間ほど神様からも教会からも離れてしまいました。時折、私は「神様から離れているけど一度はイエス様を救い主として受け入れたのだから、死んでも天国に行けるのかしら?」と考えることもありました。しかし、神様から離れるという罪の大きさを知っていたので、なるべく考えないようにしていました。そして、一九九五年、仕事も人間関係も生活のすべてがうまくいかなくなり、七月よりある十二ステップのプログラムに通うようになりました。第三のステップに「われわれの意志と生命を自分で理解している神、ハイヤー・パワーの配慮をゆだねる決心をした」とあります。私にとってのハイヤー・パワーが誰かと考えたところイエス様のほかに誰もいませんでした。クリスチャンになる前、そしてクリスチャンになってからも、いろいろな罪を犯した私の最大の罪は神様から離れることでした。自分の罪のためにイエス様が十字架にかかり、それとひきかえに神様より救いが与えられたことを思い出しそれまでの自分を悔い改め、神様に立ち返り再びイエス様と歩んでいく決心をしました。
同じ頃サンディエゴ教会に通いはじめました。最初は礼拝にだけ出てすぐ帰っていましたが、今年から祈祷会と青年会にも出席させていただいています。そしてクリスチャンとしての生活を再びできる喜びと恵みに神様に感謝しています。今私は新たな岐路に立たされています。この夏、日本に帰国するか、こちらで仕事を続けるか迷っています。しかし、箴言十六章九節に「人は心に自分の道を思い巡らす、しかし、その人の歩みを確かなものにするのは、主である。」と書いてあるように、必ず神様が御心を示して下さることを信じ、すべてを委ねています。
「苦しみに会ったことは私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは私にとって幾千の金銀にまさるものです」(詩篇一一九・七二)