
サンディエゴ教会あかし集 1997年5月
=第6号= 目 次
| 赦し、赦される! | ……………… | アイマン ナタリ |
| 幼な子のように | ……………… | アロイシオ よし子 |
| 真実なる神 | ……………… | ローランド グレイ |
| 永遠の愛で | ……………… | ホーリー 明 美 |
| 幼な子に助けられて | ……………… | 本 多 秀 行 |
| 父の形見の聖書 | ……………… | 沖 久 清 |
| 救 い | ……………… | 中尾 いずみ |
その後、私はどうしてもユダヤ教にはなれないので、離婚をしました。それからヨーロッパに渡りました。ギリシャに住んでいた時、クレテ島まで行きましたが、イスラエルに渡らなかった事を、今更ながら残念に思っています。ギルシャ語を学ぶために、アテネの大学に入学手続きまでしていたのに、サイパン島の取り合いで、ギリシャとトルコの戦争が始まり、アメリカ大使館が爆破されたので、アメリカ市民は強制的に、本国に帰国させられました。でも、そのお陰で帰国して間もなくソニーに勤め、ある姉妹と巡り合う事が出来ました。そして誘われて初めてこの教会にまいりました。一九七五年でした。ちょうどその頃、私は教会を探していたので喜び期待してこの教会にまいりましたが、その時の雰囲気にはなじめず、誰一人として私に話しかけてくれる人もなく、だんだんと足が遠のいて行きました。他の教会にも通いましたが、やはり私の信仰の求めに応じてくれる教会は見つかりませんでした。一九八三年に再婚をしてレストランを開きました。今度は主人を連れてこの教会に戻ってまいりましたが、この時も長くは続きませんでした。毎朝四時まで働くので、日曜日の朝に八時に起床して教会に来ても、居眠りをして説教を聞き逃す事が多く恥ずかしい思いをしたのです。そして五年前に、お友だちを連れてこの教会に戻ってきたことがありました。(そのお友だちは洗礼を受けてメンバーになっていながら、なぜか今はこの教会から離れています。)そして、去年の二月頃お店のお客様に招待されて古川姉の誕生パーティに行きました。そのパーティで、ソニー時代に知り合った姉妹と再び巡り合い、彼女から、教会に戻って来るようにと誘われました。そして次の日曜日に初めて中尾先生にお会いしたのです。
それからは聖書の教え、祈りに私の信仰の目が徐々に開かれてきました。私が今まで探し求めていたものが与えられました。そして今までの私のさまざまな罪が浮かび上がってきました。私は神様に私の罪の赦しを乞いました。そして、私は息子たちに詫びました。若い頃の私はわがままで自分勝手で自由奔放に生きて来た者でした。そんな母親の影で息子たちがどんなに辛い思いをして来たかと今更ながら後悔しても過ぎ去った日々は戻ってきません。息子たちが一番私を必要な時にビジネスの事ばかり考え、力にもなってやらなかった悪い母親だった事をも詫びました。けれども息子たちは、自分たちを立派に育ててくれたのだから詫びる必要は無いと言ってくれました。
その次に私の一番大きな課題、それは父を赦すことでした。中学の教師をしていた父はとても厳格な人でした。その頃の日本は、教師が生徒に体罰を与えても当たり前の事で抗議を持ち出す父兄などいませんでした。だけど、わずか七才の小さな女の子の私の頭を打ち、手がずれて左の耳の鼓膜を破り、難聴にさせた父の行為を、何十年も赦す事が出来ませんでした。難聴のために学校で先生の言葉が聞こえず、恥ずかしい思いをする度に、父の行為を恨み、悲しくて、いつも涙が出ました。アメリカに来た後、耳専門の医師に診察してもらいましたが、鼓膜だけでなく神経も痛めているので手術はできないと言われました。それでも、私が真のクリスチャンならば父を赦さなければと、努力をしました。でもどんなに努力をしても父を赦すことが出来ませんでした。アメリカに渡って来たすぐ後、父は一度手紙をくれましたが、私はその手紙を捨て、返事も出しませんでした。そして父が入院した時にも手紙も出さず、見舞いのための帰国もせず、ヨーロッパに遊びに行ったのです。実にエペソ四章三十一節のみことばに反する行為でした。父が召天した後、姉から聞かされたのですが、父は亡くなる日まで、毎日私の名前を呼び「あの子をアメリカに行かせなければ良かった」と言って男泣きに泣いていたそうです。良心の呵責に耐えかね、一言私に詫びたかったのだと思います。今思えば死の床で父がどんなに苦しい思いをしていたのかと…。
私は自分の子供たちに詫びる機会を与えられたけれど、かたくなな心の私は父にその機会を与えて上げませんでした。父の召天を知らされた時はさすがに涙が出て当分は悲しみましたが、父の葬儀には帰国をしませんでた。それほど私は父の行為を恨み、いくら努力をしても赦すことが出来なかったのです。それが、みことばを学んで行くごとに、徐々に心に平安が与えられ、もはや努力をしなくても自然に父を赦す事が出来るようになって来たのです。「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。」(マルコ十一章二十五節)「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ四章三十二節)とのみことばが心に深く刻まれました。イエス・キリストが罪からの救い主、ただひとり私たちの罪を十字架と復活によって赦し、きよめて下さるお方だと信じる事が出来たからです。去年の十月に姪と共に日本に帰国した時に、父のお墓の前に膝まずき「お父様の罪を赦しますから私の罪をも赦して下さい」と、すなおに詫びる事が出来ました。その時突然雨が降り出し、私は父の嬉し泣きの涙だと思いました。姉と妹も「貴女たちが帰って来たのでお父様が嬉し泣きに、泣いているのよ」と言いました。以前に父を赦す事が出来ていたならば、父を苦しみから解き放し、安らかに召天させてあげることが出来たのにと、後悔のために心を責められます。もし父が今でも生きていれば、父と仲良く話す事も出来るのにと残念にも思います。今は、父を恨む気持ちなど微塵もなく天国で父に逢う日を楽しみにしているくらいです。神様に祈る時、神様の側に小さくなった父が座っているのが見えるようです。
私の心に平安が与えられました。これも、この教会で信仰を再確認する事が出来、みことばを深く学ぶ事が出来たからです。そして神様がもう一度この教会に帰ってくる機会を与えて下さり、教会のメンバーに加えてくださったことを感謝しています。
アメリカにやって来て、シカゴに九年住みました。最初の子供を妊娠していた時に「エホバの証人」と名乗る人が来て、一年ほど、聖書を勉強しました。このことによって、神が世界の創造者であり、唯一のお方だということが分かったように思います。子供が生まれてからは、近所の方が教会に誘ってくれましたが、牧師の説教がほとんど理解できないうえ、子供が泣くのをなだめるのが必死で長続きしなかったように覚えています。 そのように聖書に触れたものの、私の神様は頭でだけ理解していた神様だったので、その後、創価学会に入りました。生きておられる神様でなく、宗教と、その活動に救いがあると思っていたのです。自分なりに一所懸命やってきたのですが、ある時から、この宗教のけばけばしい華やかさが自分にはあっていないのではないかと思い、またダウンタウンでの路上活動がいやになりました。そしてその教えに疑問を感じるようになり、真剣に止めたいと考えていました。そんな時、この教会のメンバーであるマーシャル初音さんに、ミラ・マー・カレッジで会い、彼女の生き生きとした姿にひかれて、サンディエゴ教会に来るようになりました。そして、皆さんのいろいろな励ましのことばにより、バプテスマを受けました。その当時、主人はまだ十年ほど軍勤務が残っており、その後、日本、韓国、アメリカの間を行ったり来たりしており、教会生活が地についておらず、どこでも、腰掛け半分の状態でした。
しかし、もう一度サンディエゴに戻ってきて、聖書を学ぶうちに、御子イエス・キリストも聖霊も、父なる神様と等しいお方であり、私は、父なる神様のご計画によって、御子イエス様のあがないによって、そして、聖霊のお力によって救われるのだということが分かりました。自分の受けたバプテスマの意味が、キリストの救いと、その救いを受け入れ、告白することであることも理解しました。「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。」(マタイ十・三二−三三)「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(マタイ一八・三)この二つは以前から良く聞いていた言葉ですが、今回、その言葉が、私の胸の中にズンズンと入って来るような思いをしました。以前友だちから、「あんたはやさしそうだけど、ほんとうはすごく頑固で、表面では『はい、はい』と言っていながら、内心は絶対そう思ってなく、自分を変えない。柳のようになかなか枝が折れない。」と言われたことがあります。私は神様のことばに対して壁をつくっていました。そして長い間、それを高く、固くしていたのです。それが、今、そこに水が染み込んでいってくずれていったのを感じました。
私は生来、「ケ・セラ・セラ」的なところがあり、何についても優柔不断でした。しかし、今、もう一度、自分と神様との関係を確認し、そのことを言い表したいと思います。ローマ人への手紙十・九−十に「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」とある通りに、この証しを通して、イエス・キリストが私の罪のために死んでくださり、私の罪を赦し、神の子とするためによみがえってくださったことを信じ、告白します。私たちはいろいろな人との関係の中で生きており、家庭のこと、職場のこと、友だちのこと、どれも大切なものですが、神様との関係、神様との交わりは、何にもまさって大切で、それは他のすべてのことの基礎になっていることが分かりました。これからは、神様との交わりを第一にし、聖書を学び、祈ることによって神様との交わりを深めたいと願っています。
一九四二年のはじめ、ダウンタウンのパラシュート製造工場で働いている時に私は地元の女性と出会い、結婚しました。この結婚生活の間で、私が心から悔いることは、教会生活を全く送らなかったということです。私自身熱心さに欠けていたことと、世俗的なことに生活の中心をおいていたことが失敗の原因でした。一九四三年の一月、海軍に入隊しましたが、第二次世界大戦の間、軍が発行していた小さな新約聖書を持っていたにもかかわらず、それを読むのを怠り、心の中ではキングジェームス版はかなり難解だし、おまけに忙し過ぎて、読む時間なんて無いからと言い訳していました。霊的なことが最大の関心時であるべきこの動揺した時期、しかし残念なことに私にとっては違いました。私の最初の妻は、癌と長く闘った後、一九六二年に亡くなりました。翌年、極東での航空母艦の任務の際、私は小夜子に会う幸運に恵まれました。膨大な量のペーパーワークと官僚制からくる八ヶ月の遅れの後、日本の福岡で結婚し、一年後に娘のカレンが生まれました。高校卒業からカレンの誕生時まで、私は教会に通っていませんでしたし、宗教的な行事を避けて過していました。こういう姿勢にもかかわらず、おかしなことに私は自分をクリスチャンであると思っていました。しかし潜在意識下では、主に従い、その教えを快く受け入れる義務を怠っているという罪の意識にさいなまれていました。
こうして霊的には墜落していたにもかかわらず、自分では小夜子がキリスト教を信奉して、カレンをキリスト教的雰囲気の中で育てることが重要であると考えていました。私は主がその知恵とあわれみによって、小夜子に教会を知りたいとという願いをおこし、遂には救い主としてイエスキリストを受け入れるように働いてくださることを祈り始めました。ある日、何の前ぶれもなく、小夜子が突然教会に行きたいと言い出しました。これはまことに、私の祈りに対する神の答えでした。小夜子は色々聞きたがり、それはまた私の興味を新たに刺激することにもなりました。神はその存在によって小夜子を祝福してくださるばかりか、私にも新しい人生の導きを与えてくださったのでした。その後、この教会の会員で、今は他州に引っ越されたダンスター恵子姉と、小夜子が移民局で市民権を申請する際に出会い、そこで信仰について話しあったことを知りました。ここでの会話が小夜子の好奇心と興味をよびおこしたわけですが、再度、主の方法は実に不思議で神秘的であるということが、証明されました。一九六八年、私の家族はOMSサンディエゴ・ホーリネス教会で礼拝をもつようになりました。それからまもなく、私はイリノイ州のグレートレークのNTCに転任となり二年間の任務に着きました。この期間、ベースのチャプレンが指導する、超教派の教会の礼拝をまもり、徐々にしかし着実に信仰が育っていきました。一九七一年にサンディゴに戻って間もなく、小夜子と私は共に、イエスキリストを私達の主として、また救い主としてはっきりと受け入れました。私達二人はその年同じ日に、浸礼によって戸田先生からバプテスマを授けていただき、カレンは数年後に受洗しました。一九七三年に三十年間軍務についた海軍を退役してからも、ずっとこの教会につながっています。
私がキリストを受け入れたのは、目をくらますような光を受けたとか、突然のインスピレーションがわいたとかいう結果では無いということを、告白しなくてはなりません。逆に、イエスキリストを個人的な主として、また救い主として完全に受け入れるまで、ゆっくりと長い時間がかかりました。私は聖霊によって、ようやく自分の人生に神の導きが必要のことに気づかされたのです。そしてイエスキリストだけがそのことをなしてくださいます。私は神の様々な祝福に対して、この心からの、つきることの無い感謝の気持ちをどのように表現してよいかわかりません。神はよく気のつくクリスチャンの母によって、私がまず教会に導かれるようにしてくださいました。そして、三つの戦争の中で起こった多くの危険な状況から、私を安全に導いてくださいました。数年間の飛行や危険な一連のパラシュート降下のおりも、神が守りを与えて下さいました。しかし最も重要なことは、愛する妻を与えて下さり、そのことによって、もう一度教会の羊の群れに戻すという祝福を与えてくださったことです。それに加えて、かわいい娘という贈り物をも許してくださいました。私が世俗的な道を長くさ迷っている時、主はいつも真実でいてくださり、決して私を置き去りにされることがありませんでした。「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」(Jコリント一・九)ながまことは大いなり、我が主よ。
中学生のとき、姉と買い物をしていると、若いアメリカ人の男性ふたりに声をかけられました。話を聞いてみると、彼らは末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師で、毎週土曜日に、教会で英会話を無料で教えているとのことでした。英語がきらいでなかった私たちは「無料」という言葉に心をとらえられて、その次の土曜日から、さっそくふたりで英会話を習いに行くことになりました。そのうち、日曜の礼拝にも誘われるようになり、しばらくは通っていましたが、聖書はほとんど使わず、『モルモン経』という自分たちの本ばかり読んでいました。そこからは特に学ぶものはありませんでした。ただ一つ覚えていることは、「どうしてこの教会には十字架がないのか」と質問すると、「イエス・キリストは十字架にかかって死んだけど、三日目によみがえられて、今も生きている方だから、死んだ十字架は関係ないのです。」と教えられたことだけでした。高校に入り、教会へ行くより、友だちとのつきあいの方が楽しくなり、しだいにその教会へも行かなくなりました。十八歳の時、主人と知り合い、五年の交際の後結婚しました。クリスチャンの主人は、私たちを結び合わせたのは神様だと信じていました。しかし、その時には、このことばの意味が分かりませんでした。後で聖書を読んで分かりました。「『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない。」(マタイ一九・四−六)
主人の仕事でサンディエゴに引っ越すことになり、姉から「おいしい日本の料理が食べられるから教会に来ない?」と誘われ、初めてこの教会の木曜祈り会に来ました。初めての私を、たくさんの姉妹方がとても暖かく迎えてくださったことを、とても感謝しています。それから、日曜日の礼拝にも出席するようになり、しばらくして、中尾先生とお話しする機会が与えられました。その時はじめて十字架の本当の意味が分かりました。イエス・キリストは今から二千年前の人の外国人で、私の親でも、親戚の叔父さんでもありません。なのに、私が今まで犯してきたいろんな罪のために、私をゆるして、新しく生まれ変わらせ、天国に行くように、さばきを受けないで永遠の命を持つようにと、神の御子イエス様が私を救うために、十字架で死んでくださったことが分かりました。そして、私は、今まで自分勝手に生きてきたことを悔い改め、おもいっきり大きく心のドアを開け、イエス様に、私の心の中に入ってくださいと、先生と一緒にお祈りしました。 「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(ヨハネの黙示録三・二〇)「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ十・九−十)
しかし、日本に長くいる間に教会を離れてしまいました。心の中がとても渇いて、ひとりでどうしょうもなくなった時、思い切ってまた教会に行き始めました。「おかえりなさい。あなたが早く教会に戻ってくるのを、ずっとお祈りしていましたよ。」と暖かく迎えていただき、久しぶりの中尾先生のメッセージはどんどん心の中に入り、暖かい感謝の気持ちでいっぱいになりました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。」(ヨハネ一五・一六−一七)神様はこんな私さえ選んでくださいました。そして変わらない永遠の愛を約束してくださいました。先生はじめたくさんの姉妹方、いつも私を支えてくれる主人、かげながらいつも私のことを心配し、祈り続けてくれた姉の真由美に、そしてこのままの私を受け入れてくださっている神様の大きな愛に感謝しています。
私は一九六九年のイースターにアリゾナ州フィニックスの近郊グレンデールにあるフリー・メソデスト教会で洗礼を受けました。その受けた理由というのが如何にもこの世的で今考えると誠におはずかしい次第です。私達が教会に行き出した理由は、長い週末をもてあましたのと日本語を話す友達が欲しいことからでした。子どもたちの道徳教育も多少は考えていたようです。ですから、教会はキリスト教会でも仏教会でも良かったのです。グレンデールは日系人の農業入植者が多く住んでいる所で一世達も多く仏教会はキリスト教会の向い側にあり、両方の教会の行事に顔を出す人々もいました。キリスト教会を選んだのは私が立教中学、高校と六年間キリスト教教育を受けたためで、多少新約聖書の御言葉も覚えていたためです。
教会に行き始めて一年半位たった時、娘のリエが「友達がイースターに洗礼を受けるので私も受けたい。」と云いだしました。しかし私は八才の娘がキリスト教を良く理解して洗礼を受けるとは考えられず、友達が受けるから一緒に受けたいという事では反対せざるを得ませんでした。私自身、洗礼をすすめられていましたが未だ確信がなく、牧師さんには曖昧な返事しかしていませんでした。立教時代からキリスト教に偏見があり、「地上に平和をもたらすためにわたしが来たと思うな。平和ではなく剣を投げ込むために来たのである。」(マタイ十章三十四節)「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい。」(マタイ十六章二十四節)「この教えを持たずにあなた方のところに来る者があればその人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。」(ヨハネ第二の手紙十節)等々、一般常識では考えられない教えが多く、実践すれば社会的には、つまはじき、悪くすれば命もあやういと怖れていました。従って娘には因果を含めてイースターには洗礼を受けないよう言い渡しておきました。
ところが、イースター礼拝でアーサー・コーペン牧師が「洗礼を受ける人たちは前に出て来て下さい。」と言われた時、娘はあれだけ言っておいたのにも拘らず友達と二人で前に出ていってしまいました。その時私の脳裏を横切ったのが前記のマタイ伝十八章の御言葉でした。良くは覚えていませんでしたが「私を信ずる幼な子(リエ)をつまづかせる者は引きうすを首につけられて海に投げ込まれた方がましだ。」というような御言葉に急に恐ろしくなり、一方娘がこの恐ろしい宗教に入信するなら親が傍にいて護ってやらねばという、まったく人間的な思いから私は席を立ち前に出て行きました。そしてリエと一緒に洗礼を受けたのです。びっくりしたのは妻でした。あんなに娘の洗礼に反対していた夫が急に娘と共に洗礼を受けたのですから。しかし、それから半年後、妻も一九六九年のクリスマスに洗礼を受けました。洗礼を受けた時娘を助けるために崖から飛び下りた感じでした。しかし今考えると、助けようとした娘に助けられたというのが実感です。娘はその後日本で再度洗礼を受け、忠実に主の道を歩んでいます。大学卒業後、フラー神学校で神学と臨床心理学を学び、アジア・アメリカ・クリスチャン・カウンセリン グ・サービスのディレクター又カウンセラーとして働いています。息子の一米はサンディエゴ・キリスト教会の副牧師として献身しています。
肝心の私は受洗後二十五年は仕事中心で信仰は進まず、いつも家族の信仰に支えられて、かろうじてクリスチャン生活を続けて来ました。ところが三年位前、私のそれまで順調だった人生に突然危機が訪れました。気力を喪失し、寝たきりの日々が続きました。その事を通して私の信仰が試され、一時は信仰を失うほど悩みましたが、主に在る兄弟姉妹のお祈りに支えられて小康を得ました。その後原因が心臓にあることが解り手術を受けて全く癒されました。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇一一九篇七十一節)この事を通して私の信仰は強められ、今日、執事として教会でご奉仕できる事を感謝しています。
父の信仰については、最近、日本に訪問した時に、父の日記を見つけて知りました。昭和四年頃の父の日記に、こう書かれていました。「十七歳の時に、人間は何の為に生まれて来たのか、死んだらどうなるのかという疑問が起こり始めた。又、この宇宙の不可思議の事、その回答を十八歳の時に聖書に求めた。その動機は十四歳の時に、上の兄が持っていた聖書を読んだ為である。」
本という本は全部焼けてしまったのに、不思議に聖書だけは焼けませんでした。その当時、母はクリスチャンではなかったのに、聖書を大切にして持ってきてくれたのです。私は父が残してくれたこの一冊の聖書がきっかけで教会に通うようになり、小学六年生の時、一九五三年九月二十七日に洗礼を受けました。珊瑚の海で洗礼を受けた時の事を今でもはっきりと覚えています。
洗礼を受けてからは、特に熱心に、日曜日には必ず礼拝に出席し、その合間には開拓伝道のグループに加わり、年上の方々といっしょに、夜田舎の山道を歩いて遠くまで伝道に行きました。中学一年の時、再び神戸に帰りました。クリスチャンの多い神戸でずっと教会に通い、聖書を学ぶ内に、イエス様が私の罪のため十字架で死んでくださり、私を救うためよみがえってくださったことをはっきりと理解し、確信できるようになりました。母も導かれてクリスチャンになりました。
私は今、エペソ人への手紙二章八節に「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行ないによるのではない。」とあることをが真実であることを確信しています。私が生まれる前から、神様は、私の救いのために、聖書を備えてくださっていたのです。
私は高校を卒業してすぐ、単身ブラジルに移住し、ブラジル・フォードで働きました。ブラジル滞在中は、ある若い宣教師が、日本からスポンサー無しで来られたので、私の所に三年余り一緒に住み、共に自炊しながら、日系人の為に伝道し、家庭集会を始めました。二、三年後には家庭集会の場所も増え、教会が必要になってきました。しかし、大工を雇える状態ではなかったので、教会の兄弟姉妹と共に、自分たちで小さな教会を建てました。建築の知識のある人が誰一人いなかったため、たいした知識や経験も無い私がリーダーになって教会を建てることになりました。
この時の経験がもとになり、ブラジルでもアメリカでも、自分の家は自分で建てるようになりました。特にサンディエゴに来てからは、気候がとても良いので、自分で家を建てることにしました。今の大きな家も、仕事の合間にほとんど自分で建てることができました。振り返って見ますと、ブラジルで小さな教会を建てたことがきっかけで大工の経験が出来たのです。神様が時にかなった奉仕や、訓練を通して、良い経験を与えてくださったことを本当に感謝しています。
ブラジルでは、会社の休みを利用して、奥地やアルゼンチンへも伝道に行くことが出来ました。特に印象に残っていることは、貧しい生活をしている人が多い所では、日々の生活にあって本当に神様に寄りすがって生きてゆかなければと、必死に堅い信仰の人が多く、それ故に神様が共に生きて働いてくださっている事をいろいろと不思議なことを通して見せてくださった事は、本当に素晴らしい体験でした。私がブラジルを去って二十八年が過ぎた今、多くの新しい教会が増し加わり、主様の栄光が賛美されていることを聞き、本当に素晴らしい事と、神様の聖名をほめたたえております。
一九六八年、デトロイトのフォード本社勤務になり、アメリカにやって来ました。アメリカへまいりまして、経済的にはとても恵まれ、物質的には何一つ不自由なく生活してきましたが、その事によってかえって神様の御臨在感を弱く感じがちで、多くの恵みをいただきながら、感謝の祈りを忘れがちであったことを憂慮し、反省している者です。
振り返って見て、イエス様を信じ、お従いして四十五年、楽しい事、苦しい事、いろいろ、山あり谷ありでしたが、ずっとイエス様が囲いの中に引き留め、守ってくださっていた事を知り、あらためて神様の哀れみと愛の深さを認識し、本当に感謝致しております。今後の目標は、神様の御旨なら、サンディエゴは、経済的に貧しい人が多いメキシコと国境を接しているので、今まで通り援助物資を持って行ったり、貧しい人の為の病院建設の工事に時々行きたいと思っています。もし、希望の方がおられましたら、グループで参加してくだされば幸いです。今回、新しくメンバーに加えていただく機会に、神様の聖名を宣べ伝える為に、少しでも役立ちたいと望んでおりますので、今後よろしくお願いいたします。
「人の子は滅びる者を救うために来たのである。」(マタイ十八章十一節)
私は雪が降る新潟県で生まれました。私の父は牧師で私が生まれる前からそこで牧会をしていました。田舎でしたのでみんなそのことを知っていました。小学校に入ってから私はキリスト教だということでいじめの対象になっていました。
日本の学校ではよくあることですが、私の行っていた学校でもお参りや、祝日には黙祷と、偶像の儀式を生徒たちに当たり前みたいにさせていました。でも私は真実の神様は一人しかいられないことを知っていたので、そのようなことを決してしませんでした。その事で周りから批判を受けました。「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」(出エジプト記二十章三節)
私が救われたのは六歳ぐらいの時です。伝道集会で母の隣に座っていて私は講師の先生のお話を分るぶんだけ聴いていました。家に帰って寝るころになったら目が覚めてきて、イエス様が私のために十字架にかかり死んでくださったと言う確信が心にあたえられました。私はそれが「救い」だと言うことをその時知りませんでした。
四年生の時、アメリカのテキサス州に引っ越し、五年生が終わって日本に戻り、六年生が終わってまたアメリカ(サンディエゴ)に来ることになり、行ったり来たりで、私は一体親につられて何をやっているのか、と感じていたころがありました。私は用も無いのにサンデイゴに住んでいる自分を犠牲者のように思っていました。神様の働きをしている両親を見て、私は「こんな所に居ても私には何もすることがない」と思っていました。役に立たないのにいつまでも同じ所に居る自分がなんだか邪魔のように感じていました。
それから何年かが経って、学校や他の場所で人間関係がうまくいかない時期がありました。人に欺かれたり利用されたりで、お人好しの自分がくやしくてたまらないのに、人に完全に冷たくする度胸もなく中途半端なまま、人に対するいやな気持ちをいだいていました。そんな気持ちはいつの日か破裂して余分な誤解を受け、人を信じた自分の純粋さと愚かさに対する悔やみ、何一つ報われず絆が切れてしまった不運などに乗り越えられなくなっていました。そして聖書に書いてある「神は愛である」の意味が分らなくなっていました。
時が経つに連れて、そんなことはもうどうでも良くなってきたのに、なぜか心に空しさが残り、その理由が分りませんでした。だって私は、よく人の証に出てくる、「親が亡くなった」とか「父がアル中で」とか「重い病になって…」とかそういうはっきりした形のある苦しみにあわなかったからです。いえば私の苦しみは、その本人にしか分らないようなものでした。どうしてただ悲しいのか、心の中にイエス様が居ないからだと言うことに気がついていませんでした。そして寂しいのに、友達との間ではよくちゃらけたりしていて、ちゃんと悩みを打ち明ければいいものを、私は隠していても全てを分っていてくれるような例外な人間を求めていたのです。でも実際は神様しかそういう人はいないのです。けれどそのころは子供のころの強い確信も色褪せていて、自分の信仰の結果もクリスチャンホームで育ったからであり、ただの家庭の環境による影響にすぎないのかもしれないと考え始めたのです。そうすると真実は何なのかと自分で確かめたくり、自分の力で探して自分で見つけるのだと思い込んでいました。
そんな時に神様が私を迷っていた道から救ってくださり、いろんな人や事柄を通しイエスキリストこそ真の神であると言うことを教えてくださいました。その時私は真実とは自分で見つけ出すものではなく、真実ご自身であられる神様が見せてくれるものだと知ったのです。「主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。」(詩篇三十三章四節)
そして神様の恵みにより私は三月にバプテスマを受けることが出来ました。幼いころ救われたことも今になってやっと洗礼を受けたことも全て神様のご計画であられたことを信じます。そして今は私を導き、また少しずつ私をもちいてくださっている神様の愛に感謝しています。