
サンディエゴ教会あかし集 1998年5月
=第8号= 目 次
| 主は素晴らしい | ……………… | エステゴイ 君代 |
| 子供の頃より | ……………… | イグナシオ ベニー |
| まことの神を知って | ……………… | イグナシオ 勝美 |
| 信仰の旅 | ……………… | 清井 ガイ |
| 神の備え | ……………… | マクドナルド ダニエル |
| 私を変えた神 | ……………… | マクドナルド 有希子 |
| 魂のふるさと | ……………… | ピアザ 秀子 |
| 真実な信仰・希望・愛 | ……………… | 宅和 佐知子 |
そのうち、今は亡き主人と結婚して、とても幸せでした。そこで、恵まれた生活をしていたのですが、アメリカにいる主人の兄が病気になり、兄はその時ひとり暮らしだったので、私たちがアメリカに来て兄の面倒を看ることになりました。一九七五年のことです。そのころ、イノセント恵子さんと知り合いました。いろいろなことがあってアメリカに住むようになったのですが、今まで住んできた家や財産が人手に渡ったり、十四年前に主人をなくしたり、八年まえに膀胱ガンの手術をしたりしました。つらいこともありましたが、持ち前の明るさと、行動力でそれらを乗り越えてきました。
恵子さんからは、いつも、神様のことを聞かされ、教会に誘われていましたが、他にしたいことが沢山あって、いつもお断りしていました。ところが、一年前から車の運転が出来なくなって、どこかに行く時には、恵子さんをはじめ、他の友達に連れていってもらわなければならなくなりました。ですから、恵子さんに教会に誘われても、以前のように「出かけるところがありますので。」とお断りできなくなりました。恵子さんも仕事の都合で毎週教会に来れませんが、来れる時にはいつもいっしょに教会に来るようになりました。
そのうち、物忘れもひどくなり、まだ頭が働くうちに、はっきりとした信仰を持つようにと、勧められ、中尾先生から特別に、テキストを使って、聖書を学ぶようになりました。そこで、私が学んだことは、「神」「罪」「救い」という三つのことでした。まことの神様は、ただキリスト教の神様というのではなく、この世界を造られたすべての人の神様です。神様が世界を造られたなら、私も神様に造られたのです。神様は私の神様でもあるのです。ところが、私はこの神様を、知ろうともせず、信じようともしないで、長い間、自分の力で生きて来ました。そこに、私の罪がありました。その私の罪のために、神の御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださいました。聖書に「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ十・九、十)と書いてあります。私は「神様、私は罪人です。私はイエス様が私の罪のために死んでくださったことを信じます。イエス様は死んだだけでなく、復活して、今も生きておられることを信じます。私の罪をゆるし、私を救ってください。」と祈りました。その時、神様は私の心に確信を与えてくださいました。
いままで、私は、頭だけで神様を分かろうとしていました。しかし、神様は私の心が欲しかったのです。今は、イエス様が私の心に来て住んでいてくださいます。これから、物忘れがひどくなって、皆さんにご迷惑をおかけするようになるかもしれません。しかし、イエス様は、私の頭の中にではなく、心の中に来てくださったので、私はどんなになってもイエス様を忘れることはありません。神様も私をお忘れになることはありません。「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」(イザヤ四六・四)私が若いころ感じた以上に、神様は素晴らしいお方です。
二十一才の時、ピアニストとして日本へ行き、妻の勝美と出会いました。私達は、私がアルターボーイとして奉仕していたフィリッピンの教会で挙式しました。日本で二年間を過した後、五年前にアメリカにやって来ました。色々な苦労や困難がありましたが、いつも神様はその中にいてくださり、祈りに答えてくださいました。そして私の主に対する愛も強められました。
一九九七年の四月二十二日のことでしたが、自宅で私はひざまずいて、二時間主を賛美しつつ祈っていました。その時私は泣いて、自分の全ての罪を許してくださるように主に願ったのです。その日、私はイエス様を自分の救い主として受け入れ、私の人生の主になっていただくように願いました。
「 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中をあるくならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたし達をきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(第一ヨハネ一章七節―九節)
私は神無しには、何もできないことがわかりました。その経験の後、昨年の五月、LSS(Life in the Spirit Seminar)に出席しました。私は肉によってではなく、霊による生き方を学びました。そのセミナーを通して、神は私の人生を本当に変えてくださったのです。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ五章二十二節―二十四節)
昨年の六月、私達は新しいアパートに引越しました。そこでアパートのマネージャーに日本人が住んでいないかとたずねたところ、トムと真由美ワリッシュさん夫婦を紹介してくれました。二人を訪ねて、二人ともクリスチャンでSDJCCのメンバーであることを知り、トムからプレイズチームでピアノを弾く人が必要なことを聞きました。それでこの教会で弾いてみようということになり、それが金曜の話で、次の日曜日にこの教会に初めて来たのです。
一九九六年の十二月、私はノートに主への願いを書き出しました。それはもっと家族と親密になれるようにという祈りでした。そして神様はその祈りにすばらしく答えて下さいました。神様は私達にワリッシュさん夫婦を送ってくださり、この教会に導いて下さいました。私達は日本語と英語で神の御言葉を学ぶことができます。これは私達への神様のすばらしい備えです。神様は子供の時より今に至るまで、私の人生を導いて下さっています。
私は、神をまず第一に置く人生を送りたいと願っています。何故なら、神様は私を愛してくださって、その御一人子、死んでよみがえったイエス? キリストを下さったからです。
「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。そして、知恵をつくして互いに教えまた訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ三章十六節)
私は神様が私に賜物を下さったことに、心より感謝しています。ですから私は音楽を通して、神様を賛美することによって、それをお返ししたいと思っています。主をほめたたえます。
そんなある日、玄関に見知らぬ男性が訪れ、彼は私に一冊の本を渡すと立ち去りました。何か話したと思うのですが、まったく覚えていません。その本の中を開くと、さっぱりわけの分からない内容だったので、そのまま読まずに放置しておきました。
その後、高校時代は、ホラー映画やタロット占いが好きで、自分や友人の将来を占って楽しんだり、方角や名前の画数により人間の運命が左右されると信じていました。
就職して間もない頃、東洋系の占いをする人に会い、私の将来を占われ、それによると、私は結婚してから十年、独身でいても四十歳までの短命であると告げられショックを受けました。その事が脳裏に焼き付いてしまって、その後、何かにつけてその事を思い出し、仕事をしていても身が入らず、自分には将来がないのだという絶望感がつきまといました。
一九九〇年の初夏の夜、私は自分の部屋のベッドの上で、「もし、この世に、本当に神様がいるのなら、どうか、私に証明してください!」と生まれて初めて祈りました。
主人と出会ったのはその直後でした。彼はフィリピンからピアニストとして日本のプロモーターと契約し、仕事できていました。友人と一緒に、偶然、彼がピアノを弾いているところに行って彼と出会いました。何度か話しをするうち、彼から、「今度ぜひ一緒に行きたいところがある。」と誘いをうけました。それは、カトリック教会でした。誰もいない教会堂の入り口に立って中を見渡すと、中央に十字架にかけられたイエス様のイメージ像がかざられていました。(この時、それが誰であるか、なぜそれが飾られてあるのか知りませんでした。)何か別世界のような感じがしました。中に入って席に着くと、何かとても落ち着く感じがしました。すこしして彼が、ロザリオと祈りのしおりを私にくれ、「一緒に祈りましょう。」と言うのです。初めてのうえ、英語で祈るのでとまどいましたが、彼の後について約一時間かけて祈ると、いままで味わったことのなかった満ち足りた気分になりました。その後、彼はイエス様について話しをしてくれましたが、その日は良く理解することができませんでした。また、彼が、「私は、イエス・キリストを心から愛している。」と言ったことが不思議でなりませんでした。なぜ、会ったこともない歴史上の人物に熱心に祈りをささげ、主と仰ぐのだろうかと疑問を持ちました。しかし、彼の信じるキリスト様に心ひかれるようになっていました。
しかし、その日の夜からロザリオで祈り、その中でイエス様のお誕生から復活にいたるまでのご生涯を学ぶうちに、聖書に興味を持つようになりました。そして、ふと、小学生の頃、家に置かれた本を思い出しました。探すとすぐに見つかりました。やはり、それは聖書で、英語と日本語の対訳でした。これは、彼と一緒に聖書を読むのに大変役にたちました。そして、神父様とマンツーマンの聖書研究を受け、学ぶたびに心が開かれていきました。長年、供え物をしてきた、神々と呼ばれるものは、全く無力であり、ただの石や木にすぎないと悟ることができました。そればかりではなく、イエス様が私の罪のあがないのために、十字架にかかり死んでくださったことを知り、とても感動しました。私は、今まで偶像に仕えてきた罪を悔い改め、イエス・キリストを心に受け入れました。イエス・キリストはたんなる歴史上の人物ではない、今も生きて、私と共にいてくださるのです。
「ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」(ガラテヤ四・八〜九)
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(Tペテロ一・八〜九)
彼は日本での八ヶ月の契約を終え帰国しました。両親は反対しましたが、私は、一人でフィリピンに行きました。彼の両親は家の敷地内に礼拝堂を持ち、毎週大勢の人を集めて伝道集会を行う大変信仰の篤い方々でした。彼の家族に暖かく迎えられ、一九九一年三月に信仰を告白し、洗礼を受け、彼と結婚しました。
結婚後、日本で二年暮らし、その間に長女が与えられました。主人の両親がアメリカに移住した時、私たちにもアメリカに来るように言われ、主人が「アメリカに行こう。」と言った時には泣いて反対しましたが、この頃、主人の目に異常が起こり、楽譜も読みにくくなりました。そのことから、アメリカに行くことが神のご意向ではないかと思うようになり、二人で祈り、一九九三年渡米しました。
その後、いままでの五年間にたくさんの苦しい試練もありましたが、神様がいつも共にいて恵みを与えてくださり、家族三人が一緒に暮らしてこれたことを感謝しています。特に、ウォリッシュご夫妻に出会い、この教会に導かれたこと、私たちを本当の家族のように迎えてくださった教会の兄弟姉妹に出会えたことを本当に感謝しています。中尾先生のメッセージは、主人も私も、毎週とても楽しみにしています。
今後は聖書研究にできるだけ参加し、そこで学んだことを実生活に生かし、より充実した信仰生活をすごしていきたいと願っています。
「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます。」(詩篇五・十二〜十三)
初めに戻ることにしましょう。私は一番下の子供としてクリスチャンの家庭に育ちました。両親と姉、四人の兄弟は皆洗礼を受けました。幼いときの記憶の一つに教団の戦前の教会の一つであるモデストのホーリネスの教会へ行ったということがあります。母は私が二才になる前に亡くなりました。父が市場に農産物を運んでいる間、私をどこかに降ろしてくれた記憶がかすかに残っています。後になってそれが教会であったとわかったのですが、私のベビーシッターは佐久間先生でした。そのころ、先生の新婚の花嫁はまだ日本にいたものですから、先生はまだ独身だったというわけです。
後年、佐久間先生一家がサンロレンゾのホーリネス教会に移った時、私は一夏、先生の家族と一緒に過しました。知っている方がおられるかもしれませんが、恐慌の間、ホーリネスは超保守的であって、若い婦人方は化粧もせず宝石もつけず、パーマ無し、映画無しでした。佐久間先生はその中でも一番規律に厳しい方でした。それに反して佐久間夫人の方は、私の知っている人の中で、最もやさしい愛のあふれた方でした。ですから、わたしは良い訓練と、模範となる人に恵まれて、人生をスタートしたと言えるでしょう。
サンデースクールが私の生活の中心だったことは、言うまでもありません。早くに私は「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」という事実を受け入れました。又、小さい時に洗礼を受けようと思っていました。けれど気がつかなかったのは、これが頭での知識で、本当にキリストを主として受け入れることの意味が、わかっていなかったのです。ただクリスチャンの生活を、して良い事といけない事というように、行いによって見ていたのです。
しかし、洗礼を受けられるようになる前に、第二次世界大戦が始まり、私達の生活は劇的に変わりました。私達モデストの者は、コロラドのアマチ収容所に送られたのですが、そこでは家族の生活は存在せず、当時高校の二年だった私は新しく見つけた自由にすっかりうかれていました。しばらくして教会が始まりましたが、日曜学校の先生の一人が姉だったにもかかわらず、たった一度しか出席した覚えがありません。
私は収容所を出て、コロラドのボーダーの高校を卒業しました。卒業後すぐ入隊して、特殊訓練部隊に配属されました。私達は高校を出て皆元気一杯で、自分達は何でも知っていると思っていた時期でもありました。私達はアカデミックな環境におかれており、時には哲学の討議の時間、宗教や神の事が論じられることもありました。しかし私達の多くがクリスチャンホームから来て、プロテスタントの印の「P」を身分証に付けていたにもかかわらず、イエス・キリストのことを話した記憶がありません。
しかし軍での生活が続く内、六ヶ月で部隊は解散になり、結局私もドイツで進駐軍として軍務を終える事となりました。その頃軍にいた方なら、こうした典型的な軍隊の、特に戦争直後の海外での状況がおわかりかと思います。端的に言えば、私はただ群集の中に群がって行ったのです。その時点、私は霊的には低く、豚のおりの中の、例え話の放蕩息子のようなものでした。しかし話と違って、父のみもとに帰るには、それから長い道のりがありました。 キリストと和解したのは、結婚後それほどたたない内でした。当時私達はサンロレンゾから一マイル程の所にあるヘイワードに移ってきました。ダン篠田先生や他に何人かを知っていたにもかかわらず、私は教会に行くことを、長い間避けていました。しかし篠田先生は、私達がそこにいたのを見つけて訪問して下さいました。その後しばらくして、高校をやっと卒業したばかりの三人の訪問チームの、若い女の子達が訪ねてきてくれました。この二つの訪問がとても私達の心に残ったのです。彼らの親しさや誠実さ、熱心さに惹かれ、私達も教会に行くようになりました。ダン篠田先生の大人の日曜学校のクラスを通して、イエス・キリストのことを理解し、キリストを自分達の救い主として心に迎えいれました。私と妻は一九六二年のイースターに一緒に受洗しました。
前に言いましたように、私の歩みはその時点からしてもゆっくりとしたものです。しかし奉仕の賜物をいただいた歩みだったと言えます。私の役に立った聖書の個所は、ピリピの四章一三節です。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」
主は豊かな人生を私達に与えて下さり、祝福して下さいました。喜びと幸せな人生です。欲望から解放され、妻が最近癌になったことを除いて、辛苦や大きな苦難の無い人生を与えられました。またその試練さえ、主の多くの祝福を当たり前だと思わずに、もっともっと感謝することにつながりました。ガラテヤ書の御ことばに「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」とありますが、ここに私は「 これらに匹敵するものはない」ということばを付け加えたいと思います。何故ならこれらは皆、私が今まで学んだことですが、真実で変わることの無い主の祝福だからです。
母の話によると、私は、三歳の時にイエス・キリストを私の救い主として受け入れたそうです。 母は、当時小さな田舎の教会でチルドレンの サンデースクールを教えていました。あるレッスンの終わりに母が、「 だれか、イエス様を自分の救い主として受け入れたい人はいますか?」と たずねたところ、私が手を上げたのでした。そして六歳の時、家族でバイブルスタディーをしているときに、私は、神様に「聖霊で満たしてください」と祈りました。
フロリダを出て七年間、私の家族は、非常に貧しかったのですが、マタイ六章三一節と三三節にあるように、つねに神様は、必要なものは、全て与えてくださいました。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは、何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。 あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」本当に信仰のみで生活をしていました。ですから、一度たりとも食事ができなかったことは、ありませんでした。そしてふたたび両親は、神様に示され、コロラドを去りケンタッキーに移り住みました。それは、コロラドでのミッションを続けるためのトレーニングを受けるためのものでした。そこで母は、神様にケンタッキーのウィルモアにあるアズベリーの神学校に行くようにと示されました。ウィルモアに移り住んで一年ほどして、そこのフリーメソジスト教会に通うようになりました。後に、その教会は、わたしのホームチャーチとなり、そこで私の信仰も育まれました。ハイスクールを卒業するまで私は、ユースグループで、バイブルクイズ、人形劇チーム、ユースクワイヤ、ユースのプレイヤーブレックファスト、などに参加し、とてもアクティブに活動しました。そのような活動を通して、たくさんの友達に出会いました。そして、とくにすばらしいユースパスターによって、主を愛し、信じ、全てのことを主に任せ、神のみこころを求めることを学びました。
わたしがティーンエイジャーの頃は、かなり母の影響が強かったように思います。私が十四歳の時でした。母に「空手を習いたい」というと、空手を習う前に洗礼を受けなさいと言われ、すでにイエス? キリストを受け入れていた私は、すぐに洗礼を受けました。十六歳になった時、ウィルモアのフリーメソディスト教会のメンバーになりました。それから、母のすすめもあって、イリノイ州のフリーメソディストカレッジのスカラーシップの試験を受けました。うまくそのスカラーシップがもらえたので、グリーンビルカレッジという大学に行くことなりました。
その時の私の人生のテーマは、すでに「神様は、すべてを与えてくださる」でしたが、今ふりかえってみると、なぜ神様は、わたしをグリーンビルカレッジに送ったのか、その理由がはっきりわかりました。それは、私に妻を与えるためでした。ですから私は、妻の有希子と結婚するまでの二年間だけグリーンビルにいました。そして残りの二年間は、アズベリーカレッジに通いました。クリスチャンカレッジでの四年間のチャペル礼拝や、ありとあらゆるバイブルや神学のクラスは、クリスチャンの伝統と信条を学ぶのにとても役に立ちました。 そして、聖書が一冊のラブストーリーであることを学びました。子供の頃に暗唱した聖書の箇所の意味がはっきりとわかるようになりました。「神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは、御子を信じる者ものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネ三章一六節)
今日にいたるまで、神様は、約束どおり私たちに全てのものを与えてくださいました。「神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、わたしたちは、知っている。」(ローマ八章二八節。)
私は、十校の大学院を受験しましたが、行きたくなかった大学院だけに合格しました。後に、そこで研究したことが、現在のサンディエゴでの仕事につながるとは、思ってもみませんでした。ふりかえってみると、そこでもまた神様は、御手をかざし、導いてくださったことがわかります。
今、私は、毎日全宇宙を支配する主が私を見守り、導いてくださっていると自信を持って生きています。「それでは、これらの事についてなんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。(ローマ八章三一、三二)
そして、それに輪をかけたのが、受験でした。私は小学校、中学校、高校と、三度受験を経験しました。一生懸命勉強して入った高校では、偏差値で学生の価値が決められ、それによると私は「落ちこぼれ」でした。ますます孤独になっていきました。そのうちに、アルバイトをはじめ、卒業に必要な日数だけ学校に行き、それ以外は登校を拒否して、好き勝手なことをするようになりました。ボーイフレンドもできました。私にやさしくしてくれる人なら誰でもよかったのです。しかし、どんなに好き勝手なことをしていても、何か満たされないものがありました。常に、何かに束縛されているような窮屈さを感じていました。その頃、とにかく自由になりたくて海外に出ることを考えました。浅はかでしたが、とりあえず英語を勉強すれば窮屈な日本の社会を出て、外国で自由な生活をすることができると信じていました。そしてわずかな貯金で英語の専門学校に通いました。
私の英語のクラスを担当したのは、イギリス人の当時二九歳の若い伝道師でした。とても穏やかで、やさしい先生でしたが、私にはどことなく奇妙に思えました。その先生が女の子に興味を示さないというのが、とても不思議だったのです。恋愛感情を持たずにやさしくしてくれる異性がいるということが信じられなかったのです。先生は、週に一度、クラスの後にバイブルスタディを開いてくださいました。集る生徒はほとんどいませんでしたが、私は少しでも英語の勉強になればと、そのバイブルスタディーに参加しました。当然のごとく、内容はさっぱり理解できませんでした。ただ先生が祈るその声にいつも安らぎを感じていました。
それから一年しないうちに、アメリカ留学をすることになりました。その時は大学で勉強することよりも、日本から出られるということのほうに魅力がありました。ところが、私が希望したその大学はクリスチャンスクールでしたので、入学の際に教会の牧師又は役員の推薦状を要求されました。当時、教会などには通った事がなかった私はとりあえず、そのイギリス人の伝道師の先生に相談しました。先生は快くそれを引き受けてくださって、その推薦状のコピーを私に見せてくださいました。それには、自分のことではないような、すばらしい評価が書かれてありました。生れてはじめて人にほめられた気がしました。これがきっかけで、私は大学で真剣に勉強することを決意しました。この先生を嘘つきにしてはいけないと思ったからです。
アメリカに来たのは二十一歳の夏でした。大学が始まるその夏、IYCというフリーメソディスト教会のユースキャンプに参加しました。一週間あったそのキャンプは英語がよくわからなくて、しかもノンクリスチャンであった私にはとても退屈でしたが、六日めの最後の夜にとても印象に残ることがありました。その夜、二千人の祈りが始まりました。その祈りの途中で私は退屈になって目を開け、ふと辺りを見渡しました。私の視界に入ってきたのは、自分以外の全員が頭を垂れて、何やら熱心に祈っている姿でした。その時、私は無性に悲しくなりました。頭をあげているのは自分一人でした。神様をとても遠くに感じていました。そのキャンプ以来、私は自分だけ神様に受け入れられていないと思い悩みました。どうしたら神様に受け入れてもらえるのだろうかと考え、聖書を開きました。私たちを創造し、愛してくださる神様がおられるという事実を確信しましたが、二十一年間も神様の存在を無視した上に、自分が好きになれず、自分自身を痛めつけていた私、両親や弟を憎んでいた私、身勝手な行動ばかりして、さんざん人に迷惑をかけてきた私を神様は知らないと言われるに違いないと思ったのです。ところが聖書には「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見出し、門をたたく者はあけてもらえるからである。」(マタイによる福音書七・七〜八)と書いてありました。聖書を読み始めて間もない時でしたが、この御言葉は、はっきりと理解することができました。 実際には神様を心に受け入れなければいけなかったのは私自身だということに気づかされました。神様はこんな私を知らないと言わずに、門をあけ、私の罪を全て赦して下さいました。そしてその時はじめて自由を感じました。私を長い間束縛していたのは、日本の家族や社会ではありませんでした。私の罪だったのです。
その後、カレッジでジュニアの夏にフリーメソディスト教会で洗礼を受けました。現在は、クリスチャンの夫に恵まれ、共に、主に感謝し、主に喜ばれる者となれるよう日々努力しています。そしてこれからも主の御名を讃美し続けたいと思います。
その後四十数年、数々のことがありました。私は、主人と出会い、結婚してアメリカにやって来ましたが、人にも言えないいろいろなことがあり、死ぬような病気に数回かかり、苦しい年月が続きました。医者から「できることはするが、命の保証はない。後は神様次第だ。」と言われたことがありました。その時は、「私の命は神様次第です。お気の召すままになさってください。」と祈ったものです。神様は私を助けてくださり、今日も無事に過ごしています。医者はいつも「あなたはラッキーだ。」と言い、天を指差して、「きっと誰かが見守っておられるのだ。」と言っていました。私も、神様に助けていただいたと思っております。その後、十数年、生活と仕事に追われ、聖書も神様のこともあまり考えない日が続きました。だからと言って神様を信じなくなっていたわけではありません。何事も神様のお気の召すままにと思って暮らしてきたのです。
そんなある日、私の古い友だちだったスミ子さんの娘さんから電話があり、スミ子さんが亡くなったと知らされました。「お葬式を誰に頼めばいいだろう。」と相談されたので、「キリスト教にお願いしなさい。」と言ってあげました。その夜、ピータース道子さんから電話がありました。彼女はスミ子さんを知っておられ、スミ子さんがジャパニーズ・チャーチに行っておられたということを知りました。中尾先生がお葬式をしてくださるので、私にも来てください、と言っていただきましたが、仕事を休めず、お葬式が終わってからスミ子さんの家に行きました。そこで、初めて、中尾先生夫妻、道子さん、数人の教会のメンバーの方にお会いしました。中尾先生や道子さんが「教会にいらしてください。」と誘ってくださり、名刺もいただきましたが、「私は教会という名のシステムが嫌いですので。」と大口をたたきました。今思うと赤面のいたりです。その後、道子さんから電話をいただいたのですが、「教会の礼拝は嫌いです。」などと、一時間あまり、ああでもないこうでもないと言ったものです。それでも道子さんは怒らないで聞いてくれました。
その後数週間、時々「教会へ行ってみようかな。いやいや、あんなに憎まれ口を言っておいて。」と思っておりました。すると、道子さんからお電話があり、「次の日曜日に、日本から来られる方の歌のコンサートがあるので来ませんか。」と誘ってくださいました。またまたしぶっていると、「秀子さん、礼拝がいやなら歌だけでも聞きにいらっしゃい。」と言っていただき、「行きます。」と返事しました。日曜日の朝、教会に行こうと思い立ち、教会に行ったのですが、道をまちがってしまって、遅れてしまいました。教会の中に入り、道子さんにバイブルや聖歌の本をお借りし、中尾先生のお話しを聞くうちに、何か心が洗われたような安らぎを感じ、永く求めていた所にやっとたどりついたような気持ちがふつふつと湧いてきました。どうして、もっと早く来る気になれなかったのかと悔やみました。それからは日曜日が待ち遠しくなりました。しっかりと聖書を学び、洗礼を受けたいと願い、洗礼準備会をしていただきました。そこで、イエス様が私の罪のために十字架に死んでくださったことを、はっきりと知りました。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Uコリント五・二一)私は、自分の罪を神様に告白し、イエス様を心にお迎えしました。神様は私の罪をゆるし、私を神の子として受け入れ、そして永遠の命を与えてくだいました。教会に来て最初に私が感じた平安は、今はイエス様によって、もっと確かなものになっています。聖歌(四七二)に
人生の海の嵐に もまれきし この身も
不思議なる 神の手により 命びろいしぬ
いとしずけき 港に着き われは今、安らう
救い主イエスの 手にある 身はいともやすし
とありますが、今、この歌のように、帰るべきところに帰ってきた喜びで一杯です。神様は私の魂のふるさとでした。私の人生で、神様のもとに立ち返れたこと以上にしあわせなことはありません。
これからは、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ六・三三〜三四)とのみことばを覚えながら、信仰の道を励みたいと願っています。
このようにして教会に来るようになったわけですが、はじめて礼拝に出た日曜日に、青年会でビデオを見ました。そのビデオは、日本の、ある有名な女性の漫画家が、クリスチャンの夫と出会い、いろんな葛藤がありながらも、「愛する人が信じている神様を自分も信じてみよう。」と思い、クリスチャンになったこと、また、その後、ガンに冒されながらも、聖書を分かりやすく漫画にし、信仰生活を全うしたという物語でした。とても感動しました。その感動は言葉で言い表せないものでした。病に臥していながらも、こんなに素晴らしい生き方をする人がいるんだなぁと、すこし自分が恥ずかしくなりました。また、まわりのクリスチャンは、何て生き生きと輝いた瞳をしているのだろうと、ハッとしました。その日、韓国の教会で知り合った、日本語の上手な女性から電話がありました。彼女も熱心なクリスチャンで、「あなたがアメリカに来たのは、神様が、あなたがクリスチャンになる機会を与えようと、導いてくださったからよ。いよいよその時が訪れたのね。」と、彼女は何気なく私に言いました。私は、その時もハッとして、これは偶然ではなく、神様のご計画なのだと思うようになりました。教会に通い始めてから、「神様、どうか私に、あなたの存在を伝えてください。」と、毎日祈るようになりました。気がついた時には、神に救いを求めていました。
私は、十六歳の時から、両親のもとを離れて、叔母と一緒に暮らしてきました。叔母は私を我が子のように育ててくれました。私も叔母をとても尊敬し、信頼しています。ある日、私はその叔母と、両親、そして日本の友人に、教会に通っていること、クリスチャンになりたいと思っているということを電話で話しました。私の家族や友人はクリスチャンではないので、どんな返事が返ってくるだろうかと、心配で怖かったのですが、叔母が一番に賛成してくれました。「自分のための信仰だから、あなたが信じているものを信仰しなさい。クリスチャンなら何も問題はないわ。」と言ってくれたのです。私は半分びっくりした気持ちと、信じるべきものが見えているのに、何か心にひっかかっていて、それを遮っていたものが取り除かれ、とてもホッとしました。何とも言えない安堵感に包まれ、自分の信ずべきお方はイエス・キリストだと確信することができました。その日から迷いはなくなりました。 教会に来てわずかな期間しか経っていませんが、その間に、多くのクリスチャンと出会い、ホーム・バイブル・スタディに加えていただいたこと、また、バプテスマの準備会で聖書を学びました。聖書の学びを通して、イエス・キリストが私の罪のために十字架にかかって死んでくださったことを知りました。それからは、十字架を見上げる度に、何とも言い表わせない気持ちになり、涙がこみあげてきます。もはや、イエス様の十字架から離れることはできません。私は今まで、自分は何でも自分でできる、また、やらなければならないと信じていました。しかし、私は、神様の前に無力で、不完全であることが分かりました。しかし、そんな不完全な者も、神様は、イエス・キリストの身代わりの死のゆえに、罪を赦して、神の子として受け入れてくださったのです。自分はパーフェクトでなくても、良くても悪くても、神様はあるがままの私を愛してくださっているのだということが分かってから、私は、不必要な責任感から解放されました。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ六・六〜七)
昨年、母が大腸がんを患って二度目の入院を経験した時、急に人の死というものや、人間の弱さを身近に感じ、人一倍死や人間のもろさを恐れていました。まことの神様を知らないでいたからです。しかし、今は、何も怖くなくなりました。死からよみがえられたイエス・キリストを信じているからです。神様は罪の中に死んでいた私を、イエス・キリストの復活の命で生かしてくださり、私を新しく生まれ変わらせてくださいました。「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。」(ローマ六・八〜九)私は、時が経っても変わらないもの、永遠のものをずっと探し続けていましたが、今、変わらない神様のご真実と、イエス・キリストを信じるものに与えられる永遠の命ををいただいて、本当の平安をいただいています。生まれて始めて、生きていることに自信が持てるようになりました。神様は、私に与えてくださったのです。それは、私が自分の知恵や悟りによって得たものではありません。それは、神様の導きです。神様について、イエス・キリストについて無知であった私を、神様が聖霊によって導いてくださったのです。神様のご計画に心から感謝いたします。
いままで、本当の愛、真実の愛、信仰、自由、希望に気付かないできたことを本当に悔やまれる反面、今、イエス・キリストに出会い、永遠の愛に包まれていることを、心から幸せに思います。これからは、日ごとに罪を悔い改めて、聖書を学び、神のことばを糧として、希望にあふれたクリスチャンとして成長していきたいと願っています。