
サンディエゴ教会あかし集 1998年11月
=第9号= 目 次
| 信仰をもって | ……………… | 赤松 エド |
| 神の愛 | ……………… | カストロ マイケル |
| イエス様との出会い | ……………… | カストロ 由美 |
| 確かな信仰 | ……………… | ライオンズ ジョン |
| 死の恐れから救われて | ……………… | 中尾 邦三 |
| はかり知れない愛と感謝 | ……………… | オブライエン 栄子 |
ティーンエイジャーの時代、私は色々なことに興味を示しアクティブに過ごしましたが、教会はそのころの私にとってプライオリティーの高いものではありませんでした。
一九四一年、戦争が勃発し、それはまるで太平洋の潮が岸を洗うように、私たちの生活を一掃してしまったのです。パールハーバー爆撃と同時にルーズベルト大統領は合衆国と日本の開戦を宣言しました。その五ヶ月後、私の家族はアメリカ軍によって収容所に移されました。
収容所に移って少ししたころ、前に通っていた仏教会のイズミダ・ジュンゾウ師が訪問して下さり、何冊かの本を置いていかれました。その中に「マハヤナ仏教」という題の師の著作がありました。そこに書かれていたことで私が覚えているのは、「クリスチャンの神は決して慰めや喜びを与えることはない。」ということでした。イスラエルの神として知られている神は、全能でも、人格を持った方でも、愛に満ちた神でもないと、その本に書かれていました。
限られた数の本の中で、私に印象深く残っているのはウイリアム ジェームズが書いたもので、そこには「創造者を論じるとき、二つの立場に分かれるのが普通である。一つは懐疑的立場であり、もう一つは信じようとする立場である」と書かれていました。私は明らかに後者の立場をとっていました。というのは、自分が困ったとき、いつも神様の助けを求めていたからです。懐疑的であるならば、自分が信じてもいないものに助けを求めることなどないからです。
一九四四年の夏、ポストンでインターンをしていたとき、ドラフトに選ばれ、翌年ヨーロッパでの日系二世の部隊に入ることになりました。しかし、戦争は終局を迎え、私は戦争に行く代わりに部隊でニュースレターの作成や、戦争捕虜の護衛、ラジオの修理、武器のクリーニングなどの仕事に追われました。そうしていた頃、私は「ヒッチハイクをしてでもジョージ アキ牧師のお話を聞きに行こう」としばしば考えたものです。しかし色々なことが次々に起こり、その「良い」計画は実行には移されませんでした。実行しなかったことに対し、私は罪の意識を持っていたと思います。罪の意識を持ったことは私のクリスチャンとしての原点ともいえるものでした。
アメリカに戻ってきて、カリフォルニアに帰っていた家族のもとへ行きました。生活を立て直すために私は仕事を探し、近くの郵便局で働きはじめました。仕事を始めると同時に、霊的なものについても立て直そうと考えました。ロングビーチにあるメソジスト日系教会に導かれ、そこで将来の妻となるミチに会いました。その後、教会へ定期的に通うようになりました。
GIビルのおかげで私はUCLAを卒業することができ、卒業後、航空機会社やコンピューターの会社に勤め、研究や、プログラム仕事をしました。大学でも職場でも、私の周りの多くの人が個人や社会のモラルの低下を心配していました。その低下を救うために教会がもっとその役割を果たすべきなのか、そうでないのかということについて、二つの立場がありましたが、その両方とも極端なものでした。一つは、神は必要ではなく、教会こそが諸問題の源であるとする立場で、もう一つは聖書を狭い意味で解釈し、他に対し寛容でない立場でした。このどちらが正しかったのでしょうか。私は、「そのどちらでもない」と思います。その両方とも、聖書の語句を間違って捉えていたり、間違った宗教、あるいは無宗教に基づいていたり、ローマ人への手紙の中でパウロが言っているように、「考え方が足りない」ために起こったものだと思います。
結婚式のあと、ミチと私は初めロスアンジェルスに住み、後にガーディナの郊外で暮らしました。子供たちとずっと暮らしてきましたが、正直にいうと、私が教会へ行くのは、子供たちをサンデー・スクールやクリスチャンスクールに連れて行くためだけでした。子供たちが母親を必要とする時期にミチが仕事を持たず、家にいて子供たちのそばにいてやれたことはとてもよかったと思います。私たちは一九七〇年代にサンディエゴに移ってきました。その後、この教会に導かれ、ジェームズ戸田先生から洗礼を受けました。
今、私は、私の信仰がもっと強められるようにと願っています。そして以前より神の存在をより多くに感じるようになりました。仲村ブライアン先生が「神様にいつも話しかけるように」とアドバイスして下さいました。神様は聖書の大いなる語り手であり、神に語りかけることで私の信仰が育てられてきました。
最後に、この証しを私に書くことを勧めて下さった中尾先生に心より感謝します。
ある日、高校から帰る途中のバスの中に、他の生徒からいじめられているクリスチャンの生徒がいました。その時、私は寝ていたかったのですが、彼らの声がうるさくて、じゃまだったので、そのいじめている生徒達にクリスチャンを放っておくように言いました。そのクリスチャンはそのことにとても感謝してくれましたが、私はその生徒に静かにしてくれ、自分がこうしたのは、ただ眠りたかったのと、そのいじめていた生徒の一人とけんかしたかっただけだからだと答えました。けれど彼は、私と話そうとし続け、数日後には、私は彼の話しを聞くようになっていました。神のことも話すようになり、そのクリスチャンは私の疑問にすべて答えてくれました。彼は私の神への信仰を新しくしてくれました。私は彼と一緒に、バイブルスタディや教会に通い始めました。その頃、私は多くの悪い人間や物事にかかわっていました。心の中では神を信じていましたが、自分のライフスタイルを変えてはいませんでした。その私がイエス様に自分の救い主になってくださるように願ったのは、そんな時でした。一番よく覚えている聖書の個所は、ローマ人の五章五節です。「そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」しかし、教会で友達とすごすうち、段々と疑問を感じるようになってきたので、徐々に以前のように熱心ではなくなり、そのうち、バイブルスタディにも教会にも行かなくなってしまいました。しかし、それでも一人で祈り、聖書を読んでいました。
何かを変えなくてはいけないと決心する時がやってきました。私はニュージャージーにいるのが嫌で、もしこのままここにいたら、牢獄で恐ろしく長い時を過すはめにおちいるような気がし、海軍に入隊しました。そこはとても私に合っていました。何故なら、自分の任務さえこなしていれば、何週間も人と話さずに一人でいられたからです。私が話しをした人は、いずれにしても「イエス」か「ノー」かのどちらかしか聞きたくない人達でした。私は旅をしながら、一ヶ所に二、三年いる生活が好きでした。私はキリストの内に育ち、再び教会に通い始めました。私は日本の任務となり、そこで由美と出会いました。そして現在ここに一九九九年までいる予定です。神が私にどんな奉仕を望んでおられるのか、まだ確かではありません。しかし、神の愛を他の人に分かち合えたらと思っています。何故なら神の愛は世界中でもっともすばらしいものですから。「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。(コリント十三章十三節)
幼稚園に勤めて一年目の冬、つまらないことで主任に目の敵にされ、逃げ出したい気持ちの時、主人に出会いました。何度か横須賀の教会に連れて行ってもらったことがありましたが、すべて英語で、何が何だか分からず、居眠りしないように頑張るのが精一杯でした。彼は、私にとって初めて知ったクリスチャンでした。彼が佐世保に転勤するまでの二年間はよく神様の話をしてくれたのを覚えています。その時は、「クリスチャンになると、いい人になれるんだなぁ」とぐらいしか思いませんでした。
結婚してサンディエゴに来ました。ここには誰ひとり知り合いはいないし、唯一知っている主人は、平日海に出て、金曜日の夜まで帰ってこないし、というような日々の中で、知らず知らずのうちに体をこわし、精神的にもまいってしまいました。とても、感情的で、泣いたり、怒ったりの毎日でした。サンディエゴで始めて知り合った日本人は、主人のボスの奥さんでしたが、彼女とは親しくなれず、私は、ますます家に閉じこもるようになりました。
そんな時、ナタリさんのレストランで働かせてもらうようになりました。ナタリさんには親切にしていただきました。いろいろなことで頼らせていただきました。そして、彼女に誘われて、主人と一緒にこの教会にきました。彼女に会わなかったら、教会にも来れず、学校にも通わず、友だちもいない生活だったと思います。
教会でお話を聞くうちに、落ち着いた生活ができるようになりました。すこしづつですが、聖書を読むようになりました。主人は家にいる時、毎朝聖書を読み、出かける前に、聖書から話してくれます。私の疑問にもめんどうがらずに答えてくれます。このようにしているうちに、神様がいらっしゃることと、神様が私を愛してくださっていることを知り、感じるようになりました。昨年の十月、日本で一緒に暮らした祖母が、突然、重体との知らせをうけました。祖母は私がアメリカに来てからも、お小遣いを送ってくれたりして、なにかと、私のことを心配してくれていました。でも、私は祖母にお礼を言えないでいたのです。それで、急いで日本に帰ったのですが、祖母はもう意識がありませんでした。そんな祖母に向かって「ありがとう」と語りかけた時、祖母の瞼が動いたように思いました。祖母はそれから一時間後になくなりました。祖母がいなくなったのは、もちろん淋しいですが、その時、なぜか神様にも「ありがとう」と言いました。神様が、私と共にいてくださる、神様がすべてを導いていてくださっている、そんな思いが私に与えられていたのです。
この神様の愛を、もっと、はっきり分かったのは、イエス様の十字架を知った時でした。ヨハネの第一の手紙四・十に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」と書かれています。神様の愛は、ぼんやりとしたものではなく、御子イエス様を私の罪の身代わりに十字架におかけになったほど、確かなものだったのです。ローマ八・三五〜三九にも、「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」私は、自分が、神様の前に罪人であること、そして、その私の罪のためにイエス様が十字架に死に、三日目によみがえってくださったこと、今、神様の大きな愛、深い愛で、罪を赦され、神の子としていただいたことを確信しています。これからも、もっともっと、神様のこと、イエス様のことを学び、聖霊様に助けられて、信仰を深めていただきたいと願っています。
私を主人に出会わせ、ナタリさんや、教会の皆さんに出会わせてくださった神様に感謝します。しかし、なによりも、神様が、命を捨ててまで私を愛してくださったイエス様に出会わせてくださったことを、心から感謝しています。
何年かたって、私は自分が神を本当に信じたことが有ったのだろうかと自問しました。聖書はいい書物だとは思っていましたが、書かれている神の言葉については私は何も知らなかったのです。
一九九一年、私はチャーチキャンプに妻とともに参加しました。そこにいる間に妻と私はワーシントンホールにある小さいチャペルに行きました。そこに座って、窓から木や岩を見ているうちに全てのことが突然はっきりしてきました。神様は私に神の力と創造を示していらっしゃったのです。
現在では私は聖書が神の御言葉であること、聖書全てが聖霊の働きによって書かれたものであることを分かるようになりました。
今日、聖書は引き続き私の信仰を強めてくれ、問いかけるといつもそこに答えを見出すことが出来ます。神は私にそれを理解する方法を示して下さいます。聖書の一つ一つの言葉が私を救い主、主なるイエスキリストに導いてくれ、それによって確かな信仰を得ていることを信じています。
父は退院して、商売をはじめました。交通事故で片足を無くしましたので、店に寝泊まりして、家に帰ることはまれでした。
父の退院と前後して母が入院しました。あとで知ったことですが、子宮ガンでした。そんなわけで、母親の顔をまじまじと見たのは、私が小学二年生のときでした。担任の先生に「お母さんが退院して家に帰って来たから、学校はもういいから帰りなさい」と言われて、私は駆け足で、近道をして家に帰りました。母は家の掃除をしていました。
しばらくは母のいる生活でしたが、またすぐに母は入院しました。父は店の隣に家を建て、母も退院して来て、家族がそろいました。けれどもそれはほんのつかの間のことでした。まだ畳の香りが強く残っている新しい部屋が、彼女の病室となりました。一週間の間医者が毎日往診に来ました。そして、母は帰らぬ人となりました。私が十歳のときでした。
このことは、私の心と身体に大きな影響を与えました。私は学校でも、何か素直になれない子供になっていました。私の嫌いな歌は「雨々ふれふれ」と「山田の中の」でした。雨が降っても、私には迎えに来てくれる母親がいなかったのです。それに「山田の中の一本足のかかし」という歌は不具の父が馬鹿にされているように思えて嫌でした。
私は母の死後肋膜炎にかかり、入院こそしませんでしたが、学校を一年間休んでしまいました。学校に戻るようになっても、体育の時間は見学で、週に一度は早引きをして病院に通わなければなりませんでした。そんな状態が中学二年生ごろまで続いたように覚えています。
私たちを世話してくれた一番上の姉は結婚しても子供がなかったため、末っ子の私を自分の子供のようにかわいがってくれました。義兄もそうでした。ところが、義兄がトラックの荷台から降り落とされてなくなってしまいました。
私は肉親の死、そして自分の病気をとうして、死を恐れるようになっていました。高校生になっても時々高い熱を出して一週間も寝込んでしまうことがありました。そんな時、自分はこのまま死んでしまったらどうなるんだろう、長く生きたとしても、やがては年をとって死んでいくのなら、生きていくことにはどんな意味があるのだろうと考えたりもしました。
聖書に興味を持ったのは、そのころでした。近くの書店で聖書を買い求めました。高校生の雑誌に「聖書通信講座」の案内が出ていたのを思い出し、バックナンバーを押し入れから引っ張り出して探しあてました。こうして、その時から、今にいたるまでの、私の聖書の勉強が始まりました。
ラジオでキリスト教番組も聞きました。その中で「技術の発達によって、今は、遠く離れた国の人と電話で話すことができるようになった。なのに、私たちは、身近にいる人と心を通わすことができない。」と言っているのを聞きました。それは、私にとっても同じでした。嫌な人とは口もききたくないと思い、心の中に憎しみをもっていたのです。私は聖書を学び自分の罪が分かってきました。そして、イエス・キリストが私を罪から救うために、十字架で死に、三日目によみがえってくださったことを、通信講座を通して理解するようになりました。
教会に行ってみたいと思い、中学校への通学路に教会があったのを思い出し、近くまで行って見ました。しかし、その教会の門はしっかりと閉ざされており、「牧師面談日、毎週木曜日」と書いてありました。その日は金曜日だったのです。それであきらめて帰ろうとしたら、その近くのブロック塀に「賛美とメッセージの集い―キリスト教伝道集会」というポスターが貼ってありました。別の教会のもので、その夜、伝道集会があるというのです。おそるおそる教会に入りました。聖歌隊の賛美のあと、メッセージが語られました。講師は、今は故人となられました、古山洋右先生でした。「あなたの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている。」(エレミヤ十七章一節))との厳しいメッセージでした。メッセージの最後に「イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる人は手をあげなさい。」との招きがありました。私はためらわず、手をあげることができました。集会が終わってひとりのクリスチャンが、私を個人的に導いてくださいました。私は生まれてはじめて、まことの神様に祈り、イエス・キリストのお名前で祈りました。後で知ったことですが、このクリスチャンは、教会の執事で、私の見たポスターは、彼が家の近くに貼ったものだったのです。
教会から家への帰り道、私は自転車のペダルをこぎながら、その夜聖歌隊によって歌われていた賛美「わが生涯はあらたまりぬ、イエスを信ぜしより、わが旅路のみひかりなる、イエスを信ぜしより。イエスを信ぜしより、イエスを信ぜしより、よろこびにて胸はあふる、イエスを信ぜしより」(聖歌四六二)を口ずさんでいました。この賛美の四節目の歌詞は「死の恐れはまたく消えぬ、イエスを信ぜしより、あまつ住まい備えたもう、イエスを信ぜしより」です。この歌詞のように、私は、イエス様を信じたことによって、死の恐れから解放されました。聖書に、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル人への手紙二・一四、一五)と書いてある通りです。
イエス・キリストは、私の心の空白を満たしてあまりあるお方でした。このお方によって私は肉親の愛にまさる神の愛を知りました。それは私が十六歳の時でした。翌年のイースターにバプテスマを受け、母教会で信仰を育てていただきました。それ以来、ただ、神様のあわれみにより、今にいたるまで、牧師として働かせていただいていますことを、こころから感謝しています。
それから、今の主人と結婚し、十九年前にアメリカに来ました。最初に来たのがサンデェゴでした。主人は海軍に勤務していたので、半年もしないうちに八ヶ月の航海に出ていってしまいました。その間、私はひとりで誰も知らないところに取り残されました。そんな時、私の家の近くの日本の食料品店のご主人が教会に行っており、私に、教会に行きませんかと、誘ってくれました。教会の方々は、とても親切で、やさしく私を迎えてくれました。私は、毎週、私を教会に連れていってくださる方々に、また、日本語で聖書のメッセージが聞けることに感謝しました。
教会に通って三年が過ぎ、一九八三年六月十二日にバプテスマを受けました。イエス・キリストが神の御子であり、私を罪と死から救ってくださるお方であるということが分かり、救いの確信が与えられたのです。自分がどれほど変わったかが分ります。神様の愛の御手の中で平安な日々をすごすことができました。そのうち、主人も六年間の海軍の勤務を終えて新しい仕事につき、何事もなく、平安な日々を過ごしていました。
ところが、主人の仕事の関係でニューヨークのセラキュースに行くことになりました。十年間住み慣れたサンディエゴを離れることになりました。サンディエゴを離れる最後の礼拝で、私は泣きました。どうしても涙が止まりませんでした。けれども、「主イエス様は、新しい土地でも、私と共にいてくださる。私は、その所で福音の種をまくのだ。」という思いに導かれました。セラキュースはとても田舎で、二エーカー以上の土地を二時間もかかって、トラクターで草刈りをしなければなりません。そこは、カナダやバッファローに近いので、冬の寒さはとても厳しく、十月から四月まで雪が降ります。横須賀で生まれ、サンディエゴで過ごした私には、この長い冬がとてもいやでした。神様はどうして私をこんなところに送ったのだろうかと思ったこともありました。主人は出張が多かったので、ドライバー・ライセンスを取ったばかりの私が、ひとりで、凍っている道路や吹雪の中を運転しなければなりませんでした。何度も溝に落ちそうになったり、テレフォン・ポールにぶつかりそうになりました。そのような時に、祈ると、「恐れるな、わたしは、あなたと共にいる。」と、神様が語りかけてくださり、私を何事にも恐れることがないよう強めてくださるのでした。
二度とサンディエゴに帰ることはないだろうと思っていましたが、神様は、五年の後、私をもう一度サンディエゴに帰してくださいました。サンディエゴに帰って来てから胃潰瘍になり、ドクターから、「もしかしたら初期のガンかもしれない。」と言われました。でも、その時、冷静でいることができました。家に帰る車の中で、こぼれてくる涙をふきながらでしたが、神様に病気のこともお委ねすることができました。神様を信じる者は、何があっても恐れることはないのです。その後、何度か胃カメラを飲んだりしましたが、結局ガンではなかったようで、薬を飲むだけで済みました。私の心は感謝で一杯です。
風船をふくらませる時は、思い切り息を吐き出すので、とても苦しく、また、割れないようにと神経を使います。しかし、ふくらんだ風船は大空に舞いあがっていきます。生きている限り、私たちの人生には、いろいろな、悲しみ、悩み、苦しみ、困難があります。けれども、聖霊の助けをいただいて、主イエス様のお名前で、神様に祈り、苦しみを乗り越えた時、感謝が大きくふくらんで、私たちのたましいも、風船のように、天にいる主イエスに近づいていくのです。どんな時も、私とともにいてくださる主イエス様を思う時、私のこころに、神様に対するはかりしれない愛と感謝がわいてきます。