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サンディエゴ教会あかし集  1999年5月

=第10号= 目  次

イエスを仰ぎ見つつ………………ダン倫子
主の恵み………………本多光代
主の愛………………ジョンソン敦子
道を求めて………………中尾照代
主が共に………………シャーリー 静子
クリスチャンホームに育って………………高橋賛美
主に委ねて………………藤間ナンシー


イエスを仰ぎ見つつ

ダン倫子

私がこの教会に導かれるにあたっては、神様の不思議なご計画があったことと思います。今日は、そのことをお話しさせていただきます。

私は一九六六年にはじめてサンディエゴにまいりました。はじめてのサンディエゴで、私は西も東も分からず、主人は海外勤務になり、その時は車の運転も知らなかった私は、毎日、淋しくすごしていました。毎日、毎日同じ生活に満足がなく、かといって自分でどうして良いのかわからず、失望のうちに悩んでいました。当時サンデェゴ教会の牧師をしていらっしゃった吹上先生にお会いして、この教会を知ったのは、そんな時でした。

一人娘の可愛さに、身勝手な願いだったかもしれませんが、子どもだけは神様に守っていただきたい、良い子になって欲しいと思い、子どもだけをサンデースクールに連れていっていただくように、吹上先生、中馬夫妻にお願いしていました。子どもを送り迎えしてくださるその都度、吹上先生はじめとして、特に、中馬兄弟は「ミセスも教会にこられてはいかがでしょう。」とご親切に声をかけてくださいましたが、私は断り続けていました。

ところが、ある時、娘に「ママ、一緒に教会に行こうよ。教会には日語部があり、礼拝も、バイブル・クラスも日本語で、ママにもわかるのよ。」とせがまれました。その時、私は、「子どもがお世話になっている教会だから、一回ぐらい行って見ても悪くないだろう。」と軽い気持ちで、はじめて教会に出席させていただきました。一九七二年のことです。そんな理由で教会に行ったものですから、聖書のお話はぜんぜんわかりませんでした。神様に対して心を開いていなかったからです。でも、神様が私の心に働いてくださったのでしょう、その時、教会には何かがある、他の所にはないものがあると感じました。そして、それから、神様は、日曜日が来るたびに、教会に行く心を起こしてくださり、もっともっと神様のお話しが聞きたくなり、最初は子どもだけを教会にやっていた私でしたが、それからは、子どもと一緒に続けて教会に出席するようになりました。

教会で、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三・十六)をはじめとして多くの聖書のことばを学びました。神を知っている人と、神を知らない人との人生の違いも学ばせていただきました。神のことばによって自分の姿が照らし出されるにつれて、私は、このままの状態ではいけない、自己中心に生きることをやめ、新しい人生の出発をしなければならないと、気づかされました。私は、戦争中のスパルタ教育によって育てられ、父の仕事の関係上、他の人とは話もできなかったぐらい、学校と家とを往復するだけの、人との交際のない環境で育てられました。それで、ものごころがついた時には、人ぎらいの性質を持つようになっていました。自分のことばかりを主張して、人をゆるすことを知らなかったのです。しかし、こんな私を救ってくださるのは、自己中心な罪人の私のため十字架に死んでくださったイエス・キリスト、死に打ち勝って、今も生きて、私の心の中に働いてくださるイエス・キリストであることが分かって、一九七三年、すべての罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として心に受け入れ、洗礼を受けました。

私がこのように信仰を持つことができ、洗礼を受けることができましたその背後には、一世の方々をはじめ、教会員の方々の祈りがありました。深く感謝いたします。また、今まで信仰を持ち続けることができましたのも、諸先生方をはじめ、兄弟姉妹方が祈って励ましてくださったからで、ひとりでは信仰を持ち続けることができなかったと思います。洗礼を受けた後、「これですべてが良くなった。」と思ったこともありましたが、それとは逆に、試練が次から次へと巡ってきました。しかし、私は、それによって祈ること、忍耐することを教えられました。神様は、私を愛すればこそ、試練を与えてくださったのです。私は試練によって、ますます、神様の愛を知らされ、神様に近くなることが出来、希望をもって日々を送ることができました。主に感謝します。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」(Tテサロニケ五・十六)このみことばによって、日々支えられ、現在、三人の孫と教会に通っています。孫たちが、小さい時から神様を信じて欲しいと願っています。 最後に、私の好きな聖書のことばを読ませていただいて、お話を終わらせていただきます。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前に置かれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル十二・二)

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主の恵み

本多光代

「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。」(詩篇一三六・一)

六人兄弟の長女として生まれ両親の愛につつまれて、戦争中も庇護の中守られて育ちました。中学・ 高校と仏教の学校に通学しましたが宗教心もなく楽しい女子だけの学生生活でした。求めるものは殆ど与えられ、わがままな、自己中心・自己満足の生活をしていたようです。両親を心配させた事もありましたが、比較的良い子で、弟三人、妹二人とも仲良く暮らしていました。 商社マンの主人と結婚して、憧れの団地住まい、長女リエも与えられました。その後、主人が退社してアメリカに私費留学し一年半後、卒業式出席のためリエと二人で初めて渡米しました。今から三十五年前です。ハワイ経由でアリゾナ州フィニックスへ。到着ホットして荷物を飛行機の中に忘れて来てしまい、それも気付かず主人と嬉しい再会をしました。二月だというのに、あたたかく空気は澄みわたり、青空、高い建物は殆どなく、道行く人々もとても親切で感激の連続でした。ホスト・ファミリーのウイルソン御夫妻は私たちと同年配でクリスチャン。いつも親切に愛をもって接して下さり、食事に招待して下さり、祈って下さった事を思い出します。今まで教会に行った事のない私たちがウイルソン御夫妻にイースター礼拝に誘われました。知人にどのようにして出席したら良いものか尋ねますと『帽子に手袋』と教えて下さりリエと共に帽子、手袋を身につけ、献金の事も何も知らない出席でしたが、とても厳粛で平安な気がしました。大家さんのお父様は牧師のクラーウチ博士。イースター・ディナーに招待して下さりお祈りをしてお食事をいただきクリスチャンに囲まれていました。親のそばから一度も遠く離れた事のなかった私が、本当に遠い所に送られた事は神様の御計画だったのでしょう。

主人の卒業・就職・長男一米があたえられ、日曜日は教会に出席するのが良いと示され、フィニックス・ジャパニーズ・フリー・メソジスト教会に出席するようになりました。皆様とても温かく迎えて下さり、子供達も大喜びで出席していました。主人とリエが三十年前のイースターに受洗し、感謝、感謝と言っていましたが、私は一人取り残されたような気持ちでした。日語部は十二名位で殆どが高齢者の方々で、テープのメッセージを聞き、いつも同じ聖歌を賛美していました。でも皆様とても柔和で、やさしく輝いていました。私も年を取ったらあの方々の様になりたいと思いました。時々ロスアンゼルスから来て下さる茂川牧師夫人の洗礼のおすすめにも、『中々聖書のことも解らず、もう少し解ってから』とお断りしていましたら『それでは一生駄目ですね』と言われ、ハット気付き何と傲慢な、神様の事を解ろうと自分勝手な言い訳をしていた事かと示され、罪を悔い改めイエス様の血潮によってきよめていただき十二月二十二日のクリスマス礼拝に洗礼を受け神の子としていただきました。その時与えられたみことば「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マタイ二二・三九)。愛の足りない自己中心の私に、神様が与えて下さった御言葉と感謝しています。何もできない小さいものですが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネ十五・十六)。神様の愛と恵みによって選ばれた重みと喜びを感謝しつつ信仰生活の第一歩を踏み出しました。フィニックス、サン・ディエゴ、日本、サン・ディエゴと主人の仕事も場所も変わりましたが、いつも神様が最善を成して下さり、子供達も信仰が守られ日本での困難の中で強くされていった様です。主人が四年前に心臓バイパスの手術を受けましたが、その前に随分苦しみ、私もつらい日々を送りましたが、その中にも不思議と神様からの平安が与えられ涙の中にも賛美がいつも口をついて出ました。神様のあわれみと恵みによって今日以前よりも元気なリタイヤ生活を送らせていただいています。「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」(詩篇一一九・七一)リエはクリスチャン・カウンセラーとして、一米は牧師として、神様の御用をさせて頂いています。二人共に素晴らしいクリスチャンの伴侶が与えられクリスチャン・ホームを築いています。

多くの素晴らしいクリスチャンの友が与えられ感謝です。日毎に肉体は不満足になる日がきますが、霊的なものを強めていただきたいと祈っています。「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」(第二コリント四・一六、一七)神様に恵みを感謝しつつ、これからの日々を歩んで行きたいと願っています。

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主の愛

ジョンソン敦子

私は一九六九年に神奈川県で生まれ、家族の愛の中で育ちました。一九九三年に、厚木の米軍基地に勤めていた主人に出会い、結婚しました。主人の仕事が海上勤務に変わり、一九九五年に、サンディエゴにやってきました。豊かな国、アメリカに来ることは私の夢でした。しかし、アメリカにやって来て、そこにあったものはひどい貧困でした。主人はいつも船に乗って出ており、週末しか帰ってきません。そんな状態が長く続き、私はどうにかなりそうでした。

そんなある日、ノースアイランドのエクスチェンジに買い物に出かけた時、日本人の方がおられ、その方と話した時、この教会のことを知りました。教会には、今までも、主人と一緒に行ったことはあったのですが、英語のメッセージで、意味は全然分かりませんでした。せっかくその方にこの教会のことを教えていただいたのに、すぐには行こうとはせず、相変わらず家の中に閉じこもっていました。

そんな時、ラッドとし子さんが私の家に来て、教会にぜひと誘ってくださいました。私は、救いを求めていたので、すぐに「行きます。」と答えました。それから、木曜集会にも出させていただき、日本料理もとてもおいしく、楽しい時を過ごしました。いままで貧しく、暗く、笑いの少ない生活をしていた私の心がどんどんと暖かくなり、喜びに満ちていきました。

しかし、主人が六ヶ月の航海に出かけた時は、経済的にとても困っていましたので、仕事を始め、それで、だんだんと教会から遠ざかってしまいました。主人の航海が終わった後も、子どもをさずかり、体調が悪くて教会に行くことができないでいました。それに、主人の子どもを引き取ったことから、身体も心も疲れ果て、毎日生きるのに精一杯でした。でも、いつも教会のことは心にあり、つたないお祈りでしたが、夢中でお祈りしていました。

今年(一九九八年)の一月、無事に健康な男の子が生まれ、生活の方もだんだんと良くなってきました。そして、教会にも休まずに来れるようになりました。神様が、私の願いをかなえてくださったおかげです。教会で、メッセージを聞くうちに、私は、イエス様のくださる救いは、ただ苦しい生活から解放されるとか、心の悩みをやわらげてもらうとかいう以上のものであることが分かってきました。私たちの悩み、苦しみの原因は、実は、私たちが唯一のまことの神様をないがしろにして自分勝手に生きていること、つまり、罪にありました。そして、この罪からの救いなしには、どんなに病気が治っても、お金持ちになっても、喜びも平安もない生活を送らなければなりません。しかし、イエス様を信じる者を、神様は新しく生まれ変わらせ、永遠の命を与えてくださるのです。私は、この救いをいただきたいと願い、イエス様を神の御子キリスト、私の救い主として心に受け入れました。

エペソ人への手紙二・四〜六に「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」とありますが、このみことばは、まるで私のことを言っているようです。まるで死んだような生活をしていた者に、神様は、もう一度命を与えて、くださったのです。また、ヤコブ二・五に「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされた」とありますように、今は、地上の富よりも、天にある宝を喜ぶことができるようになりました。主はこんな私のような罪人のために、十字架で命を捨てて救いを与えてくださったことに、どんなに感謝しても、感謝しつくすことができません。また、教会の皆様が、いつも暖かく、私たち家族を迎えてくださることを本当に感謝しています。エペソ二・十に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」とありますように、私を救ってくださった主のために、主の備えてくださった良い行いに励みたいと願っています。

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道を求めて

中尾照代

私の父は「真剣」という言葉をよく口にする人だった。人生とは真剣勝負なんだという事を、子供達の幼い時から言って聞かせ、小さな事でも、うやむやにする事を許さなかった。父は私達に、自分の言動に責任を持つようにと教え、自分の言動に責任を持てないような人間は、動物より劣るのだと言って聞かせた。また、人間にはやりたくても、やってはならない事があり、やりたくなくても、やらなくてはならない事があるのだと、くり返しくり返し、子供達に言って聞かせた。父は、クリスチャンではなかったが、人間は動物とは違うのだから、人間として恥ずかしくない生き方をする、責任のある価値ある存在なのだと、いつも教えていた。だから私は、聖書に出会って、人間が動物とは違う、神の形に造られた特別な存在だと聞いた時、すぐに頷くことが出来た。私の父は、ものを考え、ものを書き、いつも本を読んでいたが、勤勉で誠実な人だった。父は人望も厚く、私も父を尊敬していたが、なぜか父は、時々とても淋しい顔をしていた。「どうしてだろう…」と私は、心の中で父の胸を覗こうとしたが、よく見えなかった。

一方、母の方は、父とは正反対に、裕福な家庭で育ったせいか、贅沢で社交的で、本など読まない、あまり賢くない人だった。でも母は、やさしい面もあり、よく他人の面倒をみる、気前のいい人だった。

このように私の両親は、いわゆる普通の善良な市民の類に入る人だった。善良な市民同士が、結婚して家庭を作ったら、幸福な家庭が出来る筈だと思うが、実際はそうではなかった。父は考えの浅い、贅沢な母を軽蔑し、母は、酒も呑まない気難しい父を嫌っていた。「なぜ?」と私は、愛の灯の無い家の中で、いつも一人で考えていた。私は子供の頃から、「人間って何だろう」「何のために生まれ、何のために生きているんだろう」「人は何故死ぬんだろう。死って何だ」「自然はどうしてここにあるんだろう」「幸福って何だろう」等々と、自分の周りにある、あらゆるものに対して、質問を持っていた。父は私の問いに、かなり的確な答えを出してくれたが、しかしそれは、私の心の深くにある求めには、届いていないと感じていたのだった。「本当の答えが、どこかにないだろうか」と、強い渇きがあるのに、手応えが得られなくて、私はとてもやり切れない気持ちだった。空しくて、空しくて、その空しさの原因を問い続けては、一人苦しんでいた。

そんな時、(十九才の時だが)街で一枚のキリスト教のパンフレットをもらい、教会に導かれて行った。教会で歌われている賛美の中にも、あかしの中にも、説教の中にも、人々の笑顔の中にも、「ここには光がある」と感じることができた。しかし、筋道のはっきりしない、自分の納得のいかない事には、決して頷く事のできない私には、「信じて救われる」ということが、あんまり単純すぎて、よくわからなかった。でも、「ここには、何かある」という思いに惹かれて、ずっと教会に通っていた。信仰がどうしても、自分のものにならない事に悶えながら…。「どうしてなんだ。聖書が真実なら、真実なものを信じないで生きるのは、まちがった人生の選択だ。しかしもし、聖書がうそなら、もっとまちがった人生を選択することになる」と、自問自答し、「聖書がまちがっているのか、自分がまちがっているのか解るまで、求めてみようと思って、教会に通い続けた。

そんな葛藤の中にあった私に、一人の宣教師が、「罪を告白してみなさい。十字架が解りますよ」と教えてくれた。「うそか本当か試してみよう」といった気持ちで、私は思い出す限りの罪を告白した。自分は、そんなにまちがった生き方はしていないと自負していた私にとって、自分の罪深い姿を直視するのは、とても苦しかったが、神様は助けて下さった。それで私は、自分が神の前に罪深い者である事を思い知らされ、間違っていたのは、聖書ではなく、自分だったのだと、はっきり認める事ができた。イエス様が私の罪のために、十字架にかかられた事実を確信することができた。

その時以来、何をしても私の心から消えなかった、やり切れない空しさが消えている。戦いの時にも喜びが心に満ちあふれ、希望の無くならない人生を歩んでいる。私が必死で探していたもの、確かな道がここにあったのだと知り、ずっと持ち続けていた質問の答えを、全部聖書の中に見つけることができた。不信仰な私をも神様が特別にあわれんで下さって、信仰を恵んでくださったので、私のような者でも救われたのだと、感謝している。 「わたしは道であり、真実であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもと に行くことはできない。」(ヨハネ十四・六)

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主が共に

シャーリー静子

私は、静岡生まれの父と、東京湯島生まれの母の九人のこどもの、三女として生まれました。長男は五歳の時、長女も五歳の時、五女は一歳で、それぞれ肺炎で亡くなっています。私の妹綾子は、頭のガンを三度も手術して亡くなりました。綾子はライオンズ玉子さんと一緒に教会に来たことがあります。次男隆利は一九九七年五月病気で亡くなりました。

私の父は家具職人でしたが、酒飲みで、子どもが九人もいるのに、毎晩枕元に酒を置いて飲んでいるのです。酒が無くなると父は暴れるので、朝六時に酒屋の裏口から酒を二合買ってくるということがしょっちゅうありました。父が暴れると、手当たり次第に物を投げつけて、玄関の戸やふすまなどをを壊すので、何度も家を追い出されて、転々と引っ越ししなければなりませんでした。そんなわけで、私たちはいつも貧乏でした。母は内職で仕立てをし、時には、羽織、袴まで縫うことがありました。また、母はいつも薪拾いをして、それでご飯を炊き、どうしてもお金が無くなると、家に一つしかない柱時計を唐草模様の風呂敷きに包んで質屋さんに行ってお金を工面していました。私の兄や姉は小学校卒業と同時に住み込みに出され、私も、東京日本橋の電器屋に子守り兼女中として働きました。休みはお正月とお盆だけで、給料の半分は家に送金していました。

一九四五年三月十日未明、東京大空襲の時家は焼け、一九六〇年、大田区に小さい家を建てるまで、私たち一家は戦後の大変な中を通り抜けました。そんな苦労の中でも、母は毎日笑顔で過ごしていました。母は八十五歳で亡くなるまで、ずっと元気で、毎日生き生きと生活していました。それは、母が信仰によって支えられていたからだと思います。母は、夕方救世軍のタイコの音が聞こえると、私たちの手を引いて、歌いながら、聖書のお話を聞いていました。母は、朝から晩まで、父がいない時は、いつも讃美歌を歌い、私たちこどもに、「イエス様は、いつも、私たちと一緒にいてくださる。」ということを、良く話してくれました。

私が主人と結婚してアメリカにきたのは今から二十年前、一九七九年七月のことです。その時、英語を習いに行っていたアダルト・スクールで、この教会のアンドリュー静代さんと会い、はじめて、この教会に来ました。その時の牧師先生は吹上先生で、その後、大川先生に代わりました。教会でシニア・ランチが始まった時は、ギルマー花栄さんに誘われて一年間、台所でお手伝いをさせていただきました。ギルマーさんは引っ越しされる時、私に聖書をくださいました。今も、その聖書を大切にし、毎日読んでいます。その後、引っ越したりして、教会から足が遠のいていました。

一九九三年十月、直腸ガンの手術をしました。しかし、私の体は、ペニシリンが駄目で、化膿性のため、傷口を縫うことができず三ヶ月、自然治癒を待ちました。キモセラピーのために髪の毛が抜けたり、歯が弱くなったりして、苦しい思いをしました。そんな時、教会の皆さんに祈っていただいたり、お見舞いにきていただいたりしました。良くなったら、また、教会に戻りたいと願っていました。そんな時、城本道子さんが、教会に行く時には車に乗せてくださるということで、日曜日には毎週教会に来ることができるようになりました。

教会でお話を聞き、また、自分でも聖書を読むうちに、ただおひとりの神様がいらっしゃって、私たち人間をいつくしんで、私たちと共にいて、私たちを助けてくださることが、分かるようになりました。しかし、神様は本当に私のような者と共にいてくださるのでしょうか。私は自分では一所懸命生きてきたつもりですが、時には、人を怨んだり、神様を疑ったりしてきました。神様のためにも、人のためにも何か良いことをしてきたわけではありません。きよい神様から見れば、私は汚い、罪深い者です。しかし、神様は人となって、私たちと同じ世界に来てくださいました。イエス様は神の子であるのに、贅沢な生活をなさらずに、世の中で一番貧しい生活をし、私たちの誰よりもつらく、苦しい思いをされました。それは、この世の貧しい人、苦しむ人を救うためでした。私たちも、この世の生活でいろいろな苦しみを味わいますが、それは、自分が、なんとかより良い生活をしたい、少しでも幸福になりたいと思うからです。その苦しみも、結局は自分のためなのです。しかし、イエス様は私たちの罪を背負って、十字架の上で死んでくださいました。イエス様は、自分のためでなく、他の人のために苦しまれた、ただひとりのお方です。人間が神様のために犠牲になるというのなら話しは分かりますが、神様が人間のために犠牲になられたのです。

私は、こんなにまでして私を愛してくださる神様の愛、イエス様の恵みを知って、自分が神様に対して不真面目だったことを悔い改め、イエス様を私の救い主として信じました。その時から、母が私に教えてくれたように、イエス様が私と一緒にいてくださるということが、はっきり分かるようになりました。「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。」(イザヤ四一・十)母を支えた神様が、私と共にいて、私を支えてくださると思うと、感謝で一杯です。今、最初にアメリカに来た時のように、アダルト・スクールで英語の勉強を始めています。あの時、アンドリューさんが私を教会に誘ってくださったように、私も、誰かがイエス様を知るために、何かのお役に立てれば幸いです。これからの人生を、聖書を学び、祈り、神様と共に歩いていきたいと願っています。

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クリスチャンホームに育って

高橋賛美

私は、静岡県三島市で生まれ、育ちました。私の家族は、祖父、祖母の代からのクリスチャンファミリーです。親戚の多くもクリスチャンです。幼稚園も教会の付属幼稚園で、毎週日曜日に教会へ行き、祈り、聖書の話を聞く事は、子供の頃から、私の生活の一部分になっていました。そのことについて抵抗を覚える事はありませんでした。

小学校、中学校、そして高校と、サッカー、バスケットボールに熱中し、日曜に部活動の試合や練習が増えるに連れ、教会を休む事が増えました。部活動は決して悪いものではありませんが、日本では、日曜学校の子供達が教会から次第に離れていく大きな原因の一つになっています。しかし、私の両親は、私を教会に行くようにと無理強いせず、祈っていてくれました。そんな中で、私が教会から離れる事がなかったのは、そんな両親の、自分の意見を尊重させる態度と、なによりも祈りのおかげだと思います。

私の信仰は、クリスチャンホームに育ったせいかもしれませんが、とても受け身的なものでした。しかし、ある事を通し、信仰とは自分から求めるものだという事に気付きました。それは、私がまだ小学生の頃のことです。毎週あたりまえのように教会に行く母親が、「今日は行きたくない。」と言い出したのです。その時、子供ながら、私はとてもショックでした。結局、その日曜はそのまま母親抜きで教会に行き、私は日曜学校の間中、ずっと、「なぜ、母は教会に来たくないのだろう。」と考えていました。しかし、その疑問は、次第に、「なぜ、自分は教会に来るんだろう。」という質問に変わって行きました。そして、その時、自分で達した結論は、「来なければならないからではなく、自分が来て、神様を礼拝したいから、神様の話を聞きたいから来るんだ。」というものでした。 この事がきっかけで、私は、自分で神様を求めるようなり、聖書を学ぶようになりました。そして次第に、自分が弱い人間である事、清い神の前に罪人である事、そしてそんな小さな弱い自分のためにイエス様がこの世に来て下さり、十字架で死に、私を救うために死人のうちから甦られたという事が、はっきりとわかってきました。それまでは、「イエスは救い主」というのは、「一たす一は二」という公式と同じようなものでした。しかし、この時、一たす一が二でなくなったとしても、イエス様は私の救い主でなくなる事はないという事が確信できました。それからしばらくして、私が中学一年生の時の伝導集会で、イエス様への信仰を言いあらわし、一九八五年の十二月二十一日にバプテスマを受けました。

私のクリスチャンである事の基盤は、私の育った環境や、両親の祈りにあります。人には様々な救われ方がありますが、神様が、私の弱さを知っておられ、自分にクリスチャンホームという環境を与えて下さったのだと思います。今は、アメリカで学ぶために、両親から離れて生活していますが、今でも日本での多くの人の祈りに支えられていて、幸せに思います。私は、中馬兄弟を通して神様に導かれたサンディエゴ教会を自分の家族と考え、この教会で信仰を養われていきたいと願っています。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ二八・二十)

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主に委ねて

藤間ナンシー

小さい子供の頃から、私は家族と一緒に、教会に通っていました。ですから、自分のことをクリスチャンだと思い、天国へ行けるものだと思っていました。しかし、十一才の時、それが真実でないことに気づきました。神様は私をとても愛していてくださって、私と交わりたいと思っていらっしゃるけれど、私の心に罪がある為、それが出来ないのだということを、牧師先生が教えてくださったのです。しかし神様のすばらしい愛と、イエス・キリストが十字架で私達の犠牲となって死んで下さったことによって、神様は私達の罪を許してくださることが出来るのです。私は、自分の罪を告白し、神様の赦しを受け、イエス様を自分の主として、また救い主として迎え入れました。私は、牧師先生がそのことを教えて下さったことに、心から感謝しました。私は新しい人になったような気がしました。自分が神様の家族の一員になり、永遠の命をいただいたという確信ができましたので、私の心は喜びにあふれました。

しかし、それからすぐには神様との関係を育てることが出来ませんでした。聖書を読もうとしましたが、理解出来ないことが多くありましたし、霊的に成長するにはどうしたら良いのか誰も教えてくれなかったからです。ですから私は相変わらず、自分勝手に生きていました。上がり下がりの多い毎日で、神様が本当に自分の人生にいらっしゃるのか、疑問に思うほどでした。セルフイメージが低いことで悩み、落ち込むことがよくありました。

高校の時に、クリスチャンキャンプに参加しました。そこで会った多くのクリスチャンには、私には無い、主から来る喜びがありました。私もそういう神様との関係を持ちたく思ったので、牧師先生とそのことについて話し合いました。先生は、その時その時を聖霊によって、満たされるということ、また毎日主との交わりが必要であることをも教えて下さいました。私には、日々自分の罪を告白して、心を聖霊で満たしていただき、自分の人生のすべての道で、聖霊に導かれることが必要だったのです。しかし、そこで難しかったのは、自分の職業を選ぶのに、神様に全てを委ねるということでした。なぜなら、神様が、私に宣教師になって、自分の行きたくない所に行くよう、決められはしないかと思うと、恐ろしかったからです。けれど神様が私を愛して下さっているので、神様が信頼すべき方であることはわかっていました。ですから、私は少し恐れながらも、「主よ、あなたの導きが必要です。私の人生をあなたに委ねます。私はあなたの送られる所にどこでも行けるでしょうか?」と祈りました。すると、神様が私を思って下さっていることがわかり、心に平安が与えられました。

大学で、私はクリスチャンフェーローシップのグループに入り、同じ大学の学生と聖書を学びました。そこで、毎日の祈りや聖書を学ぶ時間の取り方を学びました。又、他の人に、どうやって自分の信仰のことを話したらいいかということも、習いました。今まで以上に、色々な面において神様を信頼するに従って、私の信仰も成長しました。神様が私に、外国語を学びたいという思いと、能力を与えてくださったので、言語学をメジャーに、またスペイン語をマイナーとして、専攻しました。また祖母とより良く会話が出来るように、日本語のクラスも取りました。クラスを通し、又日本の留学生との出会いによって、主は私にイエス・キリストの福音を日本人に伝えるという重荷を与えて下さいました。

卒業後、私は日本に行って二年間英会話を教えましたが、外国に住み、新しい文化や言葉を習ったことは、とても良い経験でした。日本語が充分に離せなくても、キリストにあっての共通の絆によって、クリスチャンの方々とそこで良い交わりの時を過せました。

アメリカに帰ってきてから、私は、主に仕える人生を送りたいと思うようになりました。しかし、自分と同じ思いとゴールを持ったクリスチャンの男性を知らなかったので、自分が結婚するとは長い間思っていませんでした。そこで私は、自分と同じ思いで主に仕えているクリスチャンの男性を、私のために選んで下さるよう、神様に祈っていたのですが、ある日、知り合いのロイ・トーマと自分達の将来のゴールについて話し合う時がありました。私は、いつか日本かラテンアメリカで、主に仕えたいと思っている事を話したのですが、彼も、神様が私と同じ思いに導いて下さっていることを感じると話してくれました。私は、自分と同じビジョンの人がいる事に、ショックを受けました。お互いがもっと深く知り合うようになってから、私達は、神様が二人で一緒に仕える事を望んでいらっしゃることを感じ、翌年の一九八七年の六月に結婚しました。

主は今も働き、神様の御用の為に私達を整えて下さっています。私達は神様が導かれる所へはどこへでも行ってお仕えしたいと心から願っています。人生のどの時点にあっても。神様は信頼できる方であることを、ずっと示して下さっています。神様は私を愛して、私にとって一番良いことをご存知です。自分で自分の人生をコントロールしきれなくなった時は、ゆっくり休んで、神様が私の面倒をみて下さっていることを知る時なのです。私の祈りは、あなたが神様のすばらしい愛を知って、自分の主として神様を信頼することです。そうすればあなたは、神様の愛と喜びと平安を経験するでしょう。

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(ピリピ一・六)

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