
サンディエゴ教会あかし集 1999年11月
=第11号= 目 次
| 神のもとに立ち返って | ……………… | 福島ディック |
| 『わたしがあなたを選んだ』 | ……………… | 福島十目恵 |
| 空白を満たされて | ……………… | 小林トレーシー |
| 神へのことば | ……………… | ロドニーニョ・パウロ |
| 生まれる前から | ……………… | 中尾ひとみ |
| すべてが益に | ……………… | 小倉フランク |
| 神の愛の再発見 | ……………… | 鈴木俊男 |
一九三八年十一月一日に、私は加州レッドランド市で生まれました。姉三人と兄、そして妹がありましたが、兄と姉は、幼い時亡くなりました。三才の時、日米開戦で強制立ち退きがあり、アリゾナ州ポストン収容所に入れられました。日本へ帰国希望する人達は、そこからツールレイクの収容所に移され、私達家族もそこへ移されました。終戦になって、オークランドより、米軍輸送船で日本の和歌山に帰って来ました。両親が老いた祖父母を世話する為でした。一九四六年の一月か二月頃で、寒かったことを覚えています。
和歌山の江住村で、中学二年生まで暮らし、再び帰米したのは、両親が私を米国に永住させる為でした。リバーサイド市で中、高、大学時代を過ごしました。帰米後、しばらく経った時、従兄弟にリバーサイド日系ユニオン教会のユースグループの集会に誘われ、そこで友達も沢山出来、大変楽しい交わりを持ちました。それから聖日礼拝にも出席するようになり、教会の中の暖かい雰囲気に心が動かされ、一九五八年のイースターにチエン牧師よりバプテスマを受けました。そして教会の奉仕(時々サンデースクールで教えたり、子供達を遠くまで送迎したり)して熱心に参加しました。しかし、しっかりとした救いの確信を持っていませんでしたので、大学に入り、友達とも別れ、チエン牧師も他に移られてから、次第に教会から遠ざかり、今度はフッドボールに熱中し始めました。日曜日にロサンジェルス迄、試合を見に行ったこともありました。
大学卒業後、ポモナ市にある、ジェネラルダイナミック社に就職すると、直ちに両親は帰国しました。一九六五年、姉の知人の紹介で、妻と出会いました。ジェネラルダイナミック社で三年間勤めた後、チュラビスタ市にある、ローア社に移ったその年の九月に結婚し、二人の娘が与えられ、妻と子供達は当教会に出席するようになりました。私は相変わらず、フットボールに熱中していましたが、子供達が教会に行く事は、大変良いことに思われましたので、喜んでいました。
ある日曜日の朝、ベッドの中で、今日のフットボール試合をテレビで見る事を楽しみにしていた時、長女が私のベッドに来て、「ダディーも教会に行こう」と誘いました。フットボールの試合を見たいから行かない」と答えると、「ダディーが行かないなら私も行かない」と言いました。子供達が教会につながっていることは、大事なことと思い、その日から家族と一緒に出席するようになりました。「神のなされることは、皆その時にかなって美しい」と伝道の書三章十一節に書かれていますが、実に神様は、娘を用いて私の信仰の目を覚まし、再び主の元に導いて下さいました。そして私自身、神を必要としていることを自覚し、新しく生まれ変わらされて、当教会のメンバーに加えさせていただきました。
ローア社に勤務中は、再々国内海外と長期出張で、家を留守にしましたが、主は常に共にいて、家族と私を守って下さいました。今年で勤務年数三十三年になりますが、その間不況の中でも職場が与えられ続けましたことを、深く主に感謝いたします。信仰の弱い者ですが、主のあわれみによって、当教会で主にある兄弟姉妹方と共に、今日まで歩ませていただいておりますことを、感謝いたします。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル人への手紙十二章二節)
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「人生は出会いに始まり、人はその信じる神によって決まる」と言われています。娘が四才の時、近所に住む友人が、彼等の教会のサンデースクールに娘を誘って下さいました。当時「私は仏教徒で満足です。」と友人に語り、心の中では、宗教に依頼せねば生きられない人は、弱い人間であると決めつけておりました。 ある日その友人が、「明日、日本人の教会に行きますが、あなたも一緒に行きませんか」と誘って下さいました。娘がお世話になっていますので、断れず、義理で出席しました。これが、私の教会との出会いの始まりでした。
日本でキリスト教が弾圧を受けている時、私は静岡県沼津市の田舎で生まれました。十番目で末っ子の私を、大変可愛がってくれた父は、ぬかるみで滑って、脊髄を強く打ったのが原因で、次第に歩行困難となり、私が生まれて間もなく床につくようになり、以後七年間臥す身となりました。家に病人がいますと、様々な宗教より入信の誘いがありましたが、反応を示さぬと、「何かのたたりによる」とおどかすようになりましたので、私達は、宗教と名のつくものには、非常に嫌悪感を持ちました。父は昭和二十五年暮れ、肺炎を悪化させ亡くなりました。
昭和三十七年、文化服装学院で学んでいた時、滞米中の姉より、一通の便りが届きました。私に渡米する意志があるかを聞いてきました。当時姉は英会話を学ぶ為、アメリカ人の家庭に住み込んで、軽い家事の手伝いをしながら、学校に通っていました。誠実に仕える姉に、そこのご夫妻が、クリスマスプレゼントに、日本から妹を呼び寄せて同居させてあげたいと、申し出て下さったのでした。幼い時より、アメリカに憧れていた私は、母と兄弟達の猛反対を押し切って、行きたい旨の返事を出しました。母は、末っ子の私を側に居させたい為に、そして兄弟たちは、婚期を迎えている娘が目的も無く、漠然と渡米してどうするつもりかといって、反対しました。学生ビザで渡航手続きを始めている内に、母の様子が変になりました。無口になり、毎晩布団の中ですすり泣くのです。横で寝ていた私は、最初は心が痛みましたが、次第に苛立ち始め、心の中で「ああなんて情けない母親だろう、私はこんな母親にはなりたくない」と、冷たい石の様な心で軽蔑しました。その内、母は不眠症となり、医者から処方された睡眠薬を服用するうちに、舌がもつれ、失禁が始まりましたので、驚いた家族は姉に手紙を出して、私が渡米を断念するよう書き、折り返し姉より、渡米を中止するよう返事が届きました。しばらくすると母が良くなりましたので、何とか母を説得し、ビザが下りた一週間後、母の悲しげな顔を見送りの中に残して、羽田を発ちました。
二年経ち、帰国の準備をしている時、親戚の者が縁談を持って来ました。米国で一度見合いしてみるのも良い経験と、見合いしたのが主人との出会いでした。一年後結婚に導かれ、一九六七年暮れ、長期出張先のシアトルで長女が与えられました。 初めての礼拝で聞いた、説教の内容は覚えていませんが、新年親睦会があり、沢山の日本食と暖かく迎えられたことは忘れません。それから毎週礼拝を守り、頂いた小さな新約聖書を読むにつれ、イエス様というお方の、深い愛が、心に浸透して来ました。今迄の、姿の見えぬ神様の存在が、少しづつわかって来ました。
宗教は弱い人の為、私には不必要と、傲慢な心のオーバーコートをしっかりと着ていた私は、ちょうどイソップ物語の「北風とお日さま」の旅人のように、主の愛を浴びて、オーバーコートのボタンを一つづつはずし始めました。イースターが近づいている時、イエス様のご生涯の映画が、テレビで放映されていました。私の罪の為、十字架上で苦しまれ、死なれたイエス様のお姿に感涙し、あなたを信じる者にさせて下さいと祈り、一九七四年のイースターに、吹上先生より洗礼を授けていただきました。「あなたが私を選んだのではない。わたしがあなたを選んだのである」(ヨハネ十五章十六節)
ある日、私は記憶の中の一つのことを思い出して、はっとしました。それは、私が中学生の頃だったと思いますが、一人で家におりますと、縁先に人影を感じ、見上げると銀髪に青い目をした老婦人が立っており、私に無言で一枚の紙を渡しました。田舎で、外国人を見かける事は稀でしたので、驚きました。何と書かれていたかは、記憶にありませんが、今にして思うと、その老婦人は宣教師で、渡された紙はトラクトだったに違いありません。当教会で初めて主に出会ったと思っていた私は、すでに二十数年前に主との小さな接点、出会いがあったのでした。意志の弱い私が、家族の猛反対の中で渡米し、帰国が止められ、救いにあずかったことは、全て神の恵みによるものでした。「神のめぐみによって、わたしは今日あるを得ているのである。(コリント十五章十節)
パウロは、「めぐみとは、受ける資格の無い者に、神が一方的に与えて下さることである」と言っています。「イエス様、あなたは、私をどれほど愛して下さっていますか」との問いに、主は両手を大きく広げて十字架にかかって下さいました。「私は限りなき愛を持って、あなたを愛している。それゆえ、わたしはたえず、あなたに真実をつくしてきた」(エレミア三一章三節)主よ、心より感謝いたします。娘達も結婚し、クリスチャン家庭を築かせていただき、私達と共に礼拝を守らせていただいております日々を、感謝いたします。からし種のように小さくても、命ある信仰を持って、主と共に歩ませていただきたいと、祈っております。主の御名をあがめつつ。
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ある人達は、私のことを、「生まれた時からずっと、キリストを知っている」と言っていました。そういう人達は、決まって「いつも教会に行っているんだもの、知っているに決まっているじゃない」と言いました。たとえ、私が自分の人生のほとんど、教会に通っていたとしても、それは私が、イエス様を知っている保証にはならないのです。もちろん、イエス様がどなたかということは、知っていました。でも、私の心の内にはまだ満たされていない、空白の場所がありました。その当時の、私の自分自身に対する態度や考え方というものは、「私は常に、ベスト中のベストでなければいけない」というものでした。
私がテコンドーに、ものすごく打ち込むようになったのも、私がそのような考え方を持っていたからです。テコンドーにどんどんのめり込んでいく内に、私はしばらく教会に行かなくなってしまいました。日曜日は、それ以外の一週間の日々の疲れをいやす、唯一の休日だったのです。私の友達に対する態度や考え方も、私自身のそれと同じものでした。すべての私の友達は、学校中で最も人気のある人達でなくてはいけなかったし、私は親戚家族の中で、何か問題のあったような人とは、関わりたくないと思っていました。そして、私の先生達というのは、私の知らない事や、成し遂げていないような事を、教えてくれる為に、給料をもらって、教えているような、そんな人でなければいけないと思っていました。
私の人生、命、神様そして死に対する態度、考え方はこんなふうでした。人生、命というものは、まるでバラの花のようなもの。何か失敗をするたびに、(これは、単純な失敗であって、罪をおかすようなことではありません。)一枚づつ、花びらが地に落ちていく。そして、すべての花びらが地に落ちた時、人生は終わってしまう。そして死の谷へと導かれて、そこを歩き終わると、私は心の中で、間違いなく地獄行きの刻印を押されるのだ、と思っていました。私が色々なことで、神様を失望させたからだと思っていたのです。様々な失敗が、神様を失望させたというのは、決して罪をおかしたというのではなく、もっと簡単なことでした。例えば、試合で負けるとか、歴史のテストでBを取ったなどということでした。本当に単純な失敗だったのです。そして神様に対する私の思い、態度というのは、神様というのは、いつも誰よりも一番喜ばせることの難しい存在だというものでした。夜ベッドに入る前の祈りでは、何度も「英語の中間試験でBを取ってごめんなさい、許して下さい。」とか、「私は一マイル走るのに、九分四十三秒もかかってしまいました。許して下さい。」などと、いつも許しを乞う祈りをしていました。私の人生の中で、神様は最も重く、私にのしかかる存在でした。それは、私にとって一番喜ばせることの難しい方だったからです。
その頃、私は教会に少しずつ戻っていくようになりました。少しずつ少しずつ、神様にも近づいて行ったのです。そして神様の、まことのメッセージやお話がわかってきました。この時私は、神の家なる教会に、自分から心を開いて入って行ったのです。以前のように、私の両親が望むから通っていた時とは違いました。しばらくして、私はユースグループの活動に参加するようになりました。そして、ある日のユースのミーティングの時、ラルフがウインタービジョンというキャンプがあることを教えてくれました。彼はそのキャンプに行ったことがなかったので、他のユースのメンバー達を通して、私にこのキャンプのことを説明してくれました。皆がそのキャンプを通して経験する、他のクリスチャンや、神の子供達から受ける交わりについて、語ってくれました。私はきっとウィンタービジョンのキャンプは、楽しい経験になると思いました。その後しばらく、両親とキャンプに行くべきか、次のテコンドーの試合に出るべきか話し合って、私はウインタービジョンのキャンプに行くことを、決めました。私は、本当に行って良かったと、思っています。
一九九九年一月十七日の夜、私はイエス・ キリストを私の主として、救い主として受け入れました。私はキャンプでの、その夜のことを、決して忘れることはないでしょう。決して絶対に。私の人生は、神様の恵みにより、完全に変えられました。私の、私自身に対して、また他の人に対しての態度や考え方も、すばらしく変えられました。私も他の人も、あるがままに受け入れられるようになったのです。その人は何をしたとか、何を知っているとか、何を着ているとか、そんなことは全くどうでもよく、その人のあるがままを、受け入れられるようになったのです。私は前以上に、学校や神様、ユースグループやテコンドーに、興味を深く持つようになりました。私のプライオリティーは、第一に神様、続いて学校、ユースグループ、そしてテコンドーです。毎日黙想の時を、必ず持つようにすること、学校ではベストを尽くす事、私の持てるすべてのものを与え、ささげること、毎週教会に通うこと、そして週に少なくとも三回はテコンドーの練習に行くことを守っていきたいと思います。
そして、イエス様は、私の感情や目標に対して、様々な形で─見える形や、見えない形で─口に言い表すことの出来ないほどの影響を与えて下さいました。でも私は、キリストが、確かに私を神様のもとへ引き上げて下さって、私を、家族や友達、そして他の、知っている人にも知らない人に対しても、より憐れみ深い人間へと変えて下さったことを知っています。そして、神様のお恵みによって、私の人生の目標に偉大な影響が与えられました。私の人生の目標の一つは、ナショナルオーナーソサエティの一員となることでした。一九九九年の四月十四日に、私はそのメンバーの一員になることが出来ました。もう一つの目標は、まだ達成されていませんが、私は二〇〇四年のオリンピックに、テコンドーで出場したいと思っています。神様は近頃、いつも私の側にいて下さって、痛みや苦しい練習、試合の時も私が勝てるように助けていて下さいます。私が決してあきらめずに、人生の目標に立ち向かえるように、神様のあわれみが、私に与えられています。キリストは、私と神、私と友人の関係を変えて下さいました。もはや私の心の内には、何も空白の部分はありません。私は完全に満たされているという思いでいっぱいです。
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「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三章十六節)
子供の頃から、神は存在するといつも思っていました。成長してからも、家族で日曜ごとにミサに通っていましたので、イエスキリストが主であり、救い主であるという説教を聞き、そのことを心の中で信じていました。今、この頃のことを振り返ってみて、イエス・キリストとの個人的な交わりが、どれほど大切かということに気づきます。罪の告白、罪の赦しを請うこと、イエス様を受け入れること、神の下での弟子関係などすべてのことが、皆一つにつながってくるのです。
しかしイエス様とのこうした個人的な交わりは、子供の頃にはありませんでした。実のところ、これはごく最近、経験し喜びを感じ始めたことなのです。神が私の心を変えてご自分の方に向けさせて下さったのだと信じています。なぜなら、私にとって神がとても必要な時があった一方で、日曜日の一時間だけのかかかわりでしか無かった時期もあったからです。大学時代や働き始めて間も無い頃は、世の中のことを色々と学びました。探求することが良しとされる環境にあって、定収入がある中、新しい体験をする為に、私は自分のやりたい事をしてきました。その頃、一緒に時間を過した友達も、基本的には私と同じような環境に育ち、同じような興味を持った人達でした。皆独身で、キャリアを持って、運動が好きで、週末を楽しく過そうという人達でした。神のことは考えずに過していたので、確かにイエス様との交わりは欠けていました。
ところが、ほとんどの友達が自分達の好き勝手なことをやっている中で、一人だけ世の中の楽しみを生活の中心に置いていない人がいました。ところで、私にとって一九九四年はストレスの多い、傷心のまた混乱の年であったのですが、その夏は例外でした。というのは、七月に私はハーベストクルセードに招かれたからです。先に述べた他の人とは何か違うと思っていた友人が、その時一緒にいて、私がイエス様の腕に向って歩く赤ん坊の最初の一歩を歩み始めた時、共に側で歩いてくれました。何百人のキリストを新しく信じた人達の中で、私はその夜イエスさまを私の救い主として受け入れました。芝生のフィールドに立って、私は謙遜になり、神に受け入れられ、神のものとされたことを深く感じ、涙が出そうになりました。グループ・リーダーの、神の王国への歓迎の言葉や、聖書を通してキリストに従うように励ましてくれる言葉が、まるで心地よい音楽の様に、私の耳に鳴り響いていました。
しかし、それも段々とこの世の音楽に消されていってしまいました。キリストを救い主として受け入れた後も、引き続き私は、自分の情熱を満たすような生活を送り、それからの数年間、週末は友人と一緒に休暇やデートで過していました。ただこの間に、聖書をかなり定期的に読むようになりました。
ところが一九九六年のセントパトリックデーの日、ひざに怪我をし、このような日常生活も砕かれてしまいました。それは、左足下部の膝蓋骨が完全に腱から分離してしまうという怪我で、大きな手術を受けたのですが、ちょうど手術から一週間後、家で療養している間に左足が腫れ始めました。そして血管の中深くに、血液の固まりが形成されるという症状を併発し始めました。症状は重く、又一週間入院することを余儀なくされました。ようやく退院した時、膝の治りを心配するだけではなくて、医者から処方される、血液を薄くする薬を取る勇気があるかという心配までしなくてはなりませんでした。というのはその薬は、液体であっても飲むことが可能ではなかったからです。退院する前に、看護婦さんが自分で自分に注射を打つ方法を教えてくれたのですが、最初私はそのやり方を枕で練習し、次に自分の体を使ってやってみました。どうやらうまくそれを習得できたらしく、日に二度、自分で自分のお腹に注射する方法を教えられて、退院させてもらえました。
この怪我のために職場で働けなくなり、続く何週間も何ヶ月も、私は毎日どうやって過すか考えなければなりませんでした。ほとんど一日中アパートに一人でいて、気分を紛らわすことを色々やってみました。ビデオには、友人の映画のコレクションの中から借りて来た、ジェームス・ボンドのシリーズが入っていて、いつでも次のエピソードを見れるようになっていましたし、種々様々な雑誌が部屋中に散らかっていました。ケーブル・テレビのモーニング・ショーやしまいには、紫の恐竜が出て来る子供番組まで見てしまう時もありました。
そういった中でも、聖書を読みたいという要求は大きくなっていきました。神は聖なる御言葉を通して私に語って下さったので、私の心は平安でした。それは恵みとあわれみによる、神しか与える事の出来ない平安でした。(ヨハネ十四章二七節)福音を聞くのは何という喜びでしょう。それは私のアパートの静けさを破って、鳴り響いていました。静かだったかもしれないけれど、私は決して孤独ではありませんでした。こんな状況におかれる辛さはどこかへ行ってしまい、聖書の言葉しか与えることの出来ない、暖かい平安と喜びがそれに取って代りました。心の中にあった、聖書とは一体何なのか、イエス様はどういう方なのかという疑問が、ゆっくり消え始め、私はイエス・キリストを新しく知って、健康を回復していきました。家族や友達の優しさや、寛大さもこの時期、私を元気づけてくれました。三ヶ月間で、私は仕事に復帰し、主にもっと近づきました。フィジカル・セラピストに助けられ、私の足は強くなっていきました。仕事のペースも元に戻り、間もなく通常の予定をこなせるようになりましたが、御言葉を読みたいと思う強い思いは消えることがありませんでした。
一九九六年の後半、同じ職場で、やはりイエス・ キリストを救い主として受け入れた人と言葉をかわすようになり、彼が主の事を真面目に語るのに、心を動かされました。神の事を語れば語るほど、聖書を読むのが心地よくなり、イエス・ キリストの言葉に注意するようになりました。しかし、私はイエス様との個人的な交わりの大切さを考えることを避けていました。私はそのことは考えずに、聖書に半時間位語ってもらって満足でした。自分の力では次のステップに進めず、新たな動機が必要でした。それは一九九七年の父の日のことでした。私は救急車で病院へ運ばれる事態におちいりました。私の健康が損なわれたのは、突然の事で全くの驚きでした。その金曜の夜から疲れていたのですが、翌日それがさらに悪くなり、胃が異常にはって、その午後昼寝から目覚めた後にはひどい痛みを覚え、胃が膨らんでほとんど呼吸が出来なくなりました。必死で、両親に電話したところ、すぐに九一一を呼ぶようにと説得されました。救急病院の移動ベッドの上で、私は呆然としていました。危険な状況の中で、人生のことを考えずにはおられませんでした。家族や愛した人達のことを思いました。経験してみたいと切に願っていたことを全部考えました。過去のことを思い、良い思い出や嫌な思い出を思いうかべました。そして、主のことを思い、次に自分に何かが欠けていることを認めました。もう無視することの出来ない何かです。恥ずかしいことに、私はもし神様が私にこのまま生きることを許して下さるなら、自分の人生を変えて神様に従うと誓いました。
消化器官の大きな手術から回復して、その後十日間病院で過ごしました。それからの十四ヶ月、私の神への信仰は強くなっていき、神様は私に特別の友人を与えて祝福してくださり、主を愛し、イエス様に賛美し祈ることを喜び、共に分かち合いました。神のあわれみにより、一九九八年の八月二三日、神は私に、イエス ・キリストに再び献身する特権を与えてくださいました。その栄光ある御名のもとに、私は洗礼を受け、サンディエゴ日系教会のメンバーになりました。私にとってクリスチャンであるということは、他の人と特別違うということを意味するわけではありません。それは、自分の罪を告白しないでは、神から離れて道に迷ってしまうこと、また父とのたった一つの架け橋であるイエス ・キリストとの個人的な交わりを通してのみ救いが与えられる、それを知ることなのです。私は大学生や青年達との交わり、又水曜夜の祈祷会、クワイヤーを通じて、キリストにある兄弟姉妹の皆さん方が私を快く迎えてくださり、イエス様との歩みを導いて下さることに感謝します。そして何よりも私の心に新しい一節を記して下さった神に感謝します。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ五章十六節)
「わたしは福音を恥じとしない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」(ローマ一・章十六、十七節)
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これを否定する律法はない。」(ガラテヤ五章二二、二三節)
イエス様に日々従っていくことは一日一日の積み重ねです。しかしヨハネ三章十六、十七節の約束は、生涯私を喜びで満たして支えてくれることでしょう。主として救い主として、私は神の御名を毎日、生きている限りほめたたえます。
「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためでなく、御子によって、この世が救われるためである。」(ヨハネ三章十七節)
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「みまえにきよく、傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」(エペソ人への手紙一章四、五節)
私は生まれる前から教会につながっていました。父は牧師で、両親はアパートに住んでいましたが、私が生まれてすぐ教会の建物の中に引っ越しました。父が説教をし、母がオルガンを弾いている間、赤ん坊だった私は母の背中におぶわれているか、オルガンの隣にいるかでした。そのおかげで、音楽、特に賛美歌を愛するようになりました。
父が新しい教会を建てたので、私達はそこへ引っ越しました。私はその付近の学校へ通い始めましたが、日本ではキリスト教はあまりよく知られていないので、友達から「あなたは教会に住んでいるの?あなたの家の前にある十字架って気味が悪いね」と言われた事もありました。
私は小さいときからキリストについて聞き、神に祈る生活をしてきました。小学校四年生のとき、初めてバイブルキャンプに参加し、そこで「キリストが私の罪のために十字架にかかり、私を救うために死からよみがえった」と信仰告白しました。
父はバイブルスクールやラジオの宣教放送活動、宣教団体の仕事で大変忙しかったのですが、私に大変優しく、よく面倒をみてくれました。
教会が大きくなり、伝道所を始めました。父は勉強のためアメリカに行くことになり、私達家族も父の学校のあるテキサスに移ることになりました。初めは妹も私も一言も英語が話せなかったのですが、廻りの先生、友達がとても良くしてくれて、私達は楽しい日々を過ごすことができました。私はダラスの教会で洗礼を受けました。
父が学校を卒業してから私達は日本へ戻り、東京で一年暮らしました。その後、またアメリカに戻り、私はグロスモントハイスクールに通いましたが、高校生活は大変楽しく、いい思い出ができました。
高校を卒業してから今年で三年になりました。今年は何か新しい仕事に挑戦したいと思っています。家でも、教会でも、仕事場でも私にできることは何でもしたいと思っています。私の生き方が神様に喜んでいただけるようなものであることを祈っています。
「兄弟達よ。そういうわけで、神のあわれみによって勧める。あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのすべき霊的な礼拝である」(ローマ人への手紙十二章一節)
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「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ書八章二八節)
私はサンディエゴで一九三七年に生まれました。四才まで、父のマサタローが苺を栽培していたソラナビーチに住み、戦争中は二年間、アリゾナのポストンの強制収容所にいました。その後、現在までほとんど、クカデオロとスプリングバレーの周辺に住んでいます。私は十一才の頃からサンディエゴ日本人教会に通ってイエス様のことを学びました。向井兄が毎週サンデースクールに連れていってくれ、後に彼の息子さんのトム向井兄が、送り迎えしてくれました。
八尋ジョージ先生と奥さんが家と農場に訪ねてくださり、家中の者が、イエス様を救い主として受け入れるように励まして下さいました。ある日先生は私に、イエス様を私の主として、又救い主として受け入れるかと聞かれましたので、私は「はい」と答え、イエス様が主であり、救い主として私の心に入って下さるよう祈りました。家中の者がイエス様を受け入れ、後に洗礼を受けました。
しかし、私の信仰は次のような、大きな試練や困難の時を通して試されました。
一九五九―母マサエが癌で死亡
一九六〇―農場の収穫が冷害にあい、ほとんど一年分の収入を失う
一九六一―私自身マーシーホスピタルで背中の大きな手術を受ける
一九六二―父(十年間病気)が腸閉塞で一夜にして死亡
一九九九―姉(ルース)がアルバラードホスピタルに二週間入院し、現在は養老院に入院中
アンドレクローチの古い歌に「すべてを通って、すべてを通って、私はイエスにより頼むことを学びました」というのがあります。その歌のように、主は私を助けて、そして許してくださいました。試みの時、平安と確信を与えてくださいました。主は私と共にずっといて下さっています。もしあなたが主としてまた救い主としてのイエス様をご存知ないなら、今日受け入れてみませんか?
私の好きな聖書の個所は、ローマ書八章二八、三五、三八節、ピリピ一章六節、箴言三章二一─二六節です。
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私が、クリスチャンになったきっかけは、八年前に会社の先輩が教会に行っていたことで、彼に誘われたことからでした。そのころの私は、常に高慢で、自分の中に、「自分は何でもできる」という思いがありました。神様はそんな自分を砕いてくださいました。そしてどうしようもない中で彼を私に引き合わせ、彼を通して、神様の奇跡を見せていただいたからです。
この証しを書きながら私は思いました。いままで、主に何度奇跡を見せていただいたろう。私は、「自分一人で、何とかしよう!」という思いが常にあり、その度に主を頼ることを忘れ、主に懲らしめられ、そして最後は主の奇跡を見せられてきました。少なからず、今回もその一例ではないかと思います。
私がこちらに来るきっかけとなったのは、昨年の八月、会社の上司に、「海外で仕事をしてみないか」と言われたことがきっかけでした。「仕事もさることながら、海外で伝道できたらいいな」というのが私の夢でしたので、それは非常にうれしいことでした。
もちろん、周りの反対もありました。それは、「信仰生活でかなりの誘惑があるので、止めたほうがいい」ということでした。私も迷いましたがでも行きたい気持ちがあったので、それを押し切るようにしてきたのでした。しかし、不安はありました。「いま、海外に行けば、恐らく苦労するだろうな?でも仕事もまた、生活面でも初めてのことばかりだけど、信仰生活を守りながらがんばろう」と心に決め、こちらに来たのでした。
こちらに来ての生活は、全てのことにおいて珍しいことばかりで、非常に良いものでした。しかし、教会がどこにあるのか分からない私は、約五ヶ月という月日を教会に行くことなく過ごしていたのです。はじめは「こっちに来ても、がんばるぞ!」と思っていた私ですが、日が経つにつれ、信仰的も次第に薄れ、毎日がむなしい生活になって行ったのでした。仕事でもうまくいかず、「感情を剥き出しにして、上司やその他の人と張り合う日々」、その反面、「人に気を使う生活」、それがたまらなくいやになってきました。
私の気持ちは、「早く、クリスチャンとして、証できるような生活がしたい!」毎日、そのことだけでいっぱいでした。しかしいつしか、クリスチャンとしての生活が維持できず、情けない自分に嫌気を指していました。
神様は、またしても、そんな私を助けてくれました。四月に入って、車が使えるようになり、土日に一人行動ができるようになったのです。私は喜び勇んで、ロスのリトル・トーキョウにある土屋先生の教会を訪ねました。(以前、リトル・トーキョウに遊びに行った時、そこに教会があることを知っていたのではじめは毎週ロスまで通うことを考えていました。)
先生は、私を快く迎えてくださったのですが、通うのにはあまりにも遠いので、サンディエゴにある日本人教会を、紹介してくださったのでした。私は、次の週に早速、サンディエゴ市の中にあるこの教会に電話しました。そして、その週の土曜日に場所を確かめ、日曜日に教会に行ってみました。
「ようやく、クリスチャンとして生活が維持できる、果たして、こちらで受ける礼拝はどうなのだろう?」私は、期待で胸がいっぱいでした。
礼拝で語られるメッセージはとてもすばらしく、私が日本にいた時に行っていた教会の牧師先生のメッセージに似ておりました。そのため、なんの違和感も無く先生のメッセージが、私の心に伝わってきました。また、賛美も日語、英語部ともにすばらしく、日本で歌っていた賛美がそのまま英語で歌えるなんて夢にも思いませんでした。特に、シャイン・ジーザス・シャインは、私が好きな賛美のひとつなので感動でした。
私は、今まで何度、神様にそむいて罪の中に、陥ったことでしょう。しかし、神様はそんな私でさえ許して、またもとの莢に収めてくださったのです。
今、私は、私を愛し、私達の罪のために死んでくださったイエス様に、この地サンディエゴで、皆さんとともに、主を賛美し礼拝できる喜びを、心から感謝しています。
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