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サンディエゴ教会あかし集  2000年5月

=第12号= 目  次

神のご摂理の中で ………………ディッチけさ子
むなしさから立ち返って ………………比嘉豊子
かくれんぼ ………………クヌギ ステファニー
あわれみ深き主 ………………マーシャル初 音
『遺 言』 ………………沖久晶子
神様、なぜですか ………………ピータース道子
振り返って思うこと ………………スコット恵子
ケアしてくださる神 ………………瀬川ベン
我が恵み ………………上田ケネス


神のご摂理の中で

ディッチけさ子

 私は新潟県の妙高高原町で八人兄弟の四女として生まれ、十二才まで賑やかな大家族と美しい自然の中で育ちました。日本が敗戦を迎えた翌年の一九四六年の春に父が亡くなり、そして秋には兄が病死しました。家の経済の柱であった二人の死によって、私達は住み慣れた家を売って、当時東京に住んでいた兄の家族の所へ移りました。それから間もなく姉と妹も結核に感染し、二人共若くしてこの世を去りました。母は私とは反対に太っていて根が明るい性格なのかその太った体をゆすって良く笑う人だったのですが、この頃母は笑うことを忘れてしまったかのように、私達にも余り話さなくなっていました。母は熱心な仏教徒で毎日仏壇の前に座ってお経を読み祈っていましたが、相次ぎ愛する者を失った悲しみを分かち合う相手もないままに、唯一人で耐えていた様でした。私も又兄姉達を亡くした悲しさの中で、神様なんているものかと思うようになりました。

 二十一才の時、横須賀の海軍ベース(米軍基地)に勤めていた姉の所へ遊びに行き、そこで主人と知り合い結婚しました。間もなく二人の子供達も与えられ一九五九年にアメリカに来ました。主人の故郷はインデアナでしたが、彼の勤務地はカリフォルニア州ロング・ビーチでした。そこには主人の兄弟が住んでおり、弟の方はエホバの証人で何回となく入信をするよう誘われました。しかし私は全くその気になれませんでした。彼のお兄さんはバプテスト派のクリスチャン家族で、日曜日には家族揃って教会に行くのが習慣で、何時も私達を誘ってくれました。私はその時はまだ別にキリスト教に興味があった訳ではありませんでしたが、子供達が従兄弟と一緒に教会に行きたいというので、子供だけ頼むのも悪いと思い、私も一緒に行っていました。それから数年後この私の義兄が、自分の子供達と一緒に娘をユースのクリスチャン・キャンプに行かせてくれました。そして一週間のキャンプから帰って来た時、娘のあの輝いていた顔を私は今でも忘れる事が出来ません。その頃の私達の家庭には色々と問題があり、娘は子供なりに、その事の為に悲しみ苦しんでいたようでした。神様はそんな娘を哀れんで下さり、義兄と彼のクリスチャン家族を用いて、娘を救いに導いて下さいました。本当に感謝でいっぱいです。その時から娘は「ママが自分の救いの祈り第一号」と私の救いの為に祈り始めたようでした。夜遅く彼女の部屋に明りがついているのでドアを開けると、聖書を読んでいました。私に気づいて聖書から目をはなして私の方に向けたその顔は、私が今まで見た事のない何とも表現しがたい表情でした。それで、私は一体聖書には何が書かれているのだろうと不思議な気がしました。

 その頃、私の為に、娘をはじめ他にも何人かの人達が祈ってくれていました。神様はその祈りに答えて下さり、それまで私が頑固に閉ざしていた心を、南風に吹かれた春の雪のように溶かして下さり、教会へ行きたいという気を起こさせて下さいました。それは一九七三年のクリスマスも近い頃でした。ちょうど教会ではイエス様の御降誕の話がされていました。ところがそれまでの私は聖書を一度も読んだ事が無いのですから、今日のお話は神話だと思って聞いていました。でもこのサンディエゴ教会には顔見知りの人もいて、喜んで迎えて下さり、私の思っていたような教会の堅苦しさもなく、心が安らぎました。それから聖書を読むようになり、今まで私の中で漠然としていた神様が、少しずつわかるようになりました。神様は愛のお方であり、慈しみ深く私達一人一人に心を止めていて下さる事、「わたしはあなたの名を呼んだ」「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ四十三章一、四節)

 こんな私を愛していて下さる神がいると思うと嬉しくて、小さい頃母の腕の中で泣いた時のように、何か暖かいものを感じて、涙がとめどもなく流れました。イースターが近づき、教会でもテレビでもイエス様の御生涯の事が話されていました。それは私が今まで聞いた事もないお話でした。いいえ聞いていたに違いありません。毎年イースターの頃にはこのような映画が放映されていたはずです。でも私の心の中にとどまっていなかったのです。しかしこの時は違いました。教会でもテレビでも、十字架の話になると、吸い寄せられるように夢中で聞いていました。私の罪のため十字架で苦しまれ、ご自分の命をもってこの私のため、全人類の救いのために死なれたイエス様、ただただ頭(こうべ)を垂れて感謝するのみでした。そして洗礼を受けた時に、今まで暗いトンネルの中を一人で歩いていた私が、急に眩しいほどに明るい光の中に出て来たような、何ともいえない喜びをいただきました。今でもはっきりと私の中に残っています。それは一九七四年のイースター、私が初めて教会に出席したその日から四ケ月目でした。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ十四章六節)

 今思えば、アメリカ人である主人との出会い、結婚、渡米、家庭崩壊、娘の救い、そして自分自身がキリスト教会に導かれ、恵みの御救いにあずからせて頂き、今日あるこの事はすべて神の御摂理であったことと信じています。そして娘とは今でも良い祈りの友である事を主に感謝しています。「私たちはみこころにより、ご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」(エペソ一章十一節)

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むなしさから立ち返って

比嘉豊子

 わたしの叔母は叔父をのぞいて一家がカトリック教徒でした。わたしが十五歳のとき、その叔母の家を訪ねたとき、いとこの春子さんが聖書を開いてイエス様のお話しをしてくれたのを覚えています。二十歳のころ、友だちに連れられて家庭集会に行ったこともありますが、続いて出席することはありませんでした。

 結婚して主人の仕事の都合で、沖縄の空軍基地内のハウジングに住んでいました。そのころ、隣にライ千代さんの家族が越して来られました。このご夫妻は素晴らしいクリスチャンで、時々わたしの家にも来てくださって、イエス様のお話しをしてくださり、教会にも誘ってくださいましたが、いつも断ってばかりいました。娘二人も高校を卒業し、ハワイの大学に行きましたので、さみしい日が続きました。いつも教会行きを断っていたわたしは自分から千代さんのドアのベルを押していました。「日曜日には教会に連れて行ってください。」とお願いしました。千代さんはとても喜んでくださって、新しい聖書をプレゼントしてくださいました。そのころ、週一回ライさんのところに訪ねてこられる宮里先生を紹介していただきました。そのころ先生は那覇教会の副牧師をしておられました。先生を通して聖書を学び、主日礼拝も守るようになりました。

 しばらくして、滝元明先生、田中政雄先生のリバイバルが琉球新報ホールで行われました。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネの福音書三章一六節)を主題にお話しをしてくださいました。またグロリヤシンガーズの賛美もすばらしく、わたしは自分が罪人であることをリバイバルの三日目の晩に示されました。宮里先生のおすすめもあって、一九七五年一一月一二日、「わたしは神様の前に罪人でした。イエス・キリストはわたしを罪から救って下さったお方です」と告白して、バプテスマを受けました。

 やがて娘ふたりが結婚し、長男もアメリカの大学に行き、主人とわたしと末子のマイクだけになりました。家事の余裕もできたので、基地内のPXで働きはじめました。パートタイムからフルタイムにかわり、日曜日も働かなくてはならなくなりました。はじめのうちは夕拝に出席していましたが、だんだん遠のくようになり、わたしの心もイエス様から離れていきました。また、職場の方々と一緒に毎週金曜日、ボーリングをするようになりました。わたしがボーリングをはじめると言ったら、主人はボール、靴、バッグをクリスマスにプレゼントしてくれました。金曜日は仕事が終わると、急いで家に帰って、夕食の仕度をして、ボーリング場に車を走らせるのです。やさしい主人も金曜日になりますと、夕食のおかずにフライドチキンを買ってきてくれ、わたしは楽にでかけられるようになりました。ボーリングが終わるとみんなとスナックに行ってカラオケを歌ったりして、「花の金曜日」を楽しんでいました。クリスマスパーティ、忘年会には、ダンスクラブにも行きました。はじめてダンスクラブに行った時は、世の中にはこんなところもあったのかと思いました。わたしの心はすっかり悪魔に支配されていたのです。やがて、この世の楽しみの後味の悪さ、むなしさだけが残るようになりました。

 教会に戻りたいと思いながらも、イエス様にそっぽを向いたのですから、いまさら帰れないと思いました。それからは毎日苦しい日が続きました。テレビの前のソファに座ってボーッとしているだけの日が続きました。主人や息子にも迷惑をかけていたのです。こんな罪深いわたしにも神様はルカによる福音書一五章の放蕩息子の記事、また百匹の中の一匹の羊のことを思い出させてくださいました。すぐに教会に電話をしました。なつかしい先生の声が聞こえてきました。先生は電話で祈ってくださり、また教会に来るように言ってくださいました。愛にみちた神様は再び先生にあわせてくださいました。もし神様が愛の神様でなければ、わたしはとっくに主の幹から断ち切られていたにちがいないのです。それからは、主日礼拝、祈祷会を守るように努めてまいりました。この、信仰の原則を守ることによってわたしの信仰と生活も守られてきたのです。アシュラムにも二度参加させていただいて、救いの確信を持つことができました。あのいまわしいカラオケやこの世のむなしいものから、主を賛美する者と変えてくださった主に感謝します。

 さて、主人の退職が決まり、アメリカに来ることになりました。主人と私だけがアメリカに来て、マイクは沖縄に残ることになりました。長女の教会の宣教師が、沖縄にいるマイクを訪ねてくれ、その宣教師に、マイクは「ぼくはイエス様を信じている」と言ってくれました。ところが、仕事のことで、急にパキスタンに行くことになりました。私は、彼がイスラムの国に行くというので、大変心配しましたが、神は、不思議な方法で、彼を導いてくださったのです。パキスタンで病気をし、そこのセブンスデー・アドベンティストの病院に入院しました。今の夫人になったアイリーンには、その病院で知り合ったのです。二人は結婚したいと思い、牧師に相談しましたら、マイクもバプテスマを受けなけばならないと言われ、彼は、そこでバプテスマを受けました。そして、結婚して、アメリカに戻ってきました。今は、息子夫婦とふたりの孫娘と生活しています。さて、アメリカに戻ることになった時、英語の話せないわたしはすぐ教会のことを心配しました。日常会話もおぼつかないわたしが英語の説教がわかるはずがありません。そんな時ハーベストタイムの中川先生が沖縄で集会をされ、そのお話しのなかにサンディエゴ日本語教会のことが出てきたのです。日本を発つ前に、ハーベストセンターに電話して、この教会のアドレスを教えて頂きました。ここに来る前にハワイの娘たちのところに寄り、マキキ聖城教会の礼拝に出席しました。そこの黒田先生もサンディエゴ教会を紹介しましょうかとおっしゃってくださいました。そして、無事にこの教会に導かれ、本当に感謝しております。

 六年間の楽しい教会生活があっという間に過ぎた時、思いがけないことが起こりました。それは、主人に肺ガンが見つかったことでした。最初は、そんなに重いものと考えていませんでしたが、症状は良くなるどころかどんどん悪くなっていきました。家族も、教会の皆さんも主人の救いのために祈り続け、ついに、主人は、イエス・キリストへの信仰を告白して、病床洗礼を受けました。一九九七年一月二三日、主人が天に召される一日前のことでした。私は、主人を亡くした悲しみを通り抜けなければなりませんでしたが、神は、このような大きな試練に耐えることができるようにと、前もって、サンディエゴ教会で私の信仰を強めていてくださったのだと思います。神は、多くの方々の祈りを通して、私の心をいやしてくださいました。

 わたしは、いま、ルイス・パラウ集会でいただいた小さな本に載っていた文章を思いだしています。それは、神様がモーセにあらわれた時に用いられた「柴」のことについてのことでした。神様は立派な、若々しい柴を用いたのではなく、荒野で発育の可能性のない、古びた柴を用いられました。神様は教育ある人、雄弁な人を必要とされない。神様が用いられるなら、わたしたちは神様の聖さをあらわすことができる。わたしたちが神様のために何かをするのではない。神様がわたしたちを通し、わたしたちを用いて何かをしてくださる、と書かれてありました。そのように、わたしも、日々のデボーションによって、イエス様にしっかりとつながり、イエス様の命と力によって歩みたいと願っています。

 「しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」(ヨハネ四章一四節)「わたしは一つのことを主に願った。わたしはそれを求める。わたしの命の日の限り主の家に住むことを。」(詩篇二七章四節)

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かくれんぼ

クヌギ ステファニー

 私が、四歳位の頃だったと思うのですが、ベッドに横になりながら、神様って一体どんな方だろうとか、どんな格好をしていらっしゃるんだろうとか、考えていたのを覚えています。日曜学校で見るイエス様の絵や、先生の読まれる例え話しを聞いて想像するのですが、分かりませんでした。またそのための努力もしませんでした。三年生の時、私は地域の子供達のための伝道クラブである、アワナに参加し始めました。数ヶ月したある晩、私はその集会で、キリストを受け入れました。私は神様を喜ばせるため自分を変えようと努力し、そのためにすべきゴールのリストを作ったのですが、その内のほんの少ししか、できたかどうかチェックしませんでした。私は、アワナをそれから、一、二年でやめてしまいました。教会の活動や日曜学校に重要性を見出せなくなったからです。私にとって、教会に行くということは、友達と一緒にいられる一つの機会であって、家族がいつも教会に行くからという習慣から、単に行っていたのにすぎませんでした。私の神様の概念は以前にもまして、漠然としたものでした。

 大きくなって、だんだん自分を色々なことに合わせることが難しくなってきました。私の周りのものが、みんなどんどん変わっていくかのようでした。その頃、私は神様の方に向いたように思っていました。けれど今思うに、その頃の私はそれまでにもまして、神様を疑い、神様にうそをついていたのでした。神様は私に答えてくださらない。私はそう思い、自分に頼るようになりました。しかし、十三歳位で、ユースグループに入って色々活動し始めて、私は自分がなんて怠慢なクリスチャンだったのだろうということに気が付きました。まるで神様とかくれんぼをして遊んでいるようだと、思ったのです。わたしは、自分の気持ちを隠して、反対に神様が私のことを見つけて、すべてのことを良くしてくださるのを待っていたのです。私は教会で成長し、自分と神様は近い関係にあると思っていました。しかし事実はそうでなく、神様との関係はとても弱いものでした。そしてようやく私は、自分と神様にずっとうそをつき通していたことに気が付いたのです。神様が私に望んでらっしゃることではなく、私が自分のためにしたいことをずっと考えていたのでした。その時、私はもう一度キリストに自分の人生を捧げようと決め、努力して神様との本当の時間を持ち始めました。

 それから神様が求めていらっしゃる変化に気づき始めました。私はそれまで、ほとんどクリスチャン以外の友達と一緒に過していました。その人達はとても良い人達でしたが、私が持っている信仰とは全く異なったことを信じていました。それで神様の導きにより、そんな友達から離れて別の高校へ行く事を決めたのです。今でも私は、その友達と話し、その人達のために祈っていますが、本来ならばあったかもしれない、社会的な問題やプレッシャーに会わないですんでいます。慣れ親しんだものから離れるのは、難しいものですが、神様は私に何かを教えようとして下さっています。信仰は自分が知ってるものや慣れ親しんで育ったものから、一歩外側へ踏み出すことで、神様が自分を守ってくださると信じることです。それが例え、ほんのちっぽけな信仰の行動だったとしても。神様は、どれほど沢山の祝福を私に与えて下さっているか、教えてくださいました。

 一九九九年三月二十八日、洗礼の日に声が出なくなりました。多分それは、自分の信仰を言葉でなく、行いによって示すことを私に教えようとした、神様のちょっとしたやり方だったのでしょう。私は神様に対して、素直になり、沢山のことばより自分の正直な気持ちで神様と語ることが必要でした。今でも私にとって、神様に自分の人生をお任せし、正直な気持ちを表し、祈るのは難しいことです。しかし、それを通して、神様は私のことを聞いて、待って祝福してくださっています。

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あわれみ深き主

マーシャル初 音

 神様が、あわれみのゆえに、私の人生をいかに作り変えてくださいましたかを、お証しする時を与えてくださり、主に心より感謝いたします。まず最初に詩篇の四十篇から引用させていただきます。「主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引き上げて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。」

 かって、私は失望と自己憐憫、そして人からのさげすみの内に過ごしました。しかし、今は違います。神に対する信頼、希望、そして神様に頂いた愛があります。

 私は一九四〇年、今で言う「未婚の母」のもとで生まれました。それでも子供時代は、父母の愛をいっぱいに受けて育ちました。一九五八年、十九歳の時に、軍人であった最初の主人と結婚し、すぐにアメリカに来ました。しかし、夫との会話がよく通じず、またアメリカの習慣になかなか慣れることができませんでした。それで、夫は私との生活に不満を感じ、暴力を振るうようになりました。他に日本人のいない所で話す相手もなく、そのうちノイローゼのようになり、自己憐憫にかかり、ある時、目が覚めたら病院にいました。睡眠薬自殺をして失敗したのです。失敗したことを、今は、神様に感謝しています。その時、私はまだ神様を知りませんでしたが、神様はその時から、私のことを守っていて下さったのです。

 私は夫に耐えられなくなり、一歳半の息子の手を引いて、友だちを頼ってサンディエゴに来ました。その時私は妊娠三ヶ月でした。女の子が生まれました。主人はしばらくしてヨーロッパに行き、そのまま行方不明になりました。それからの私の生活は、荒れに荒れたものとなりました。アルコールの味を覚えたのもこの頃です。その頃の私は人々から敬遠された存在となっていました。

 そのうち今の主人と出会い、結婚しました。しかし、私の心の内には平安はなく、人を心から信頼することができませんでした。主人は良い家庭を築こうと努力してくれましたが、私は感謝を知らない利己的な人間になっていました。その頃、友だちの一人が、「教会で日本食のランチが出るから行きましょう。」と誘ってくれました。教会の人たちはとてもやさしく、ひとりびとりが素晴らしい笑顔を持っていました。「この人たちは自分と何と違っているんだろう、私もこの人たちのようになりたい。」と思うようになりました。牧師先生は「主イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったのです。」と教えてくださいましたが、私は二千年前の人がどうして今の私のために死ぬことができるのかと、不思議に思い、イエス様を信じることができませんでした。私たちの結婚生活は、またもや荒れたものとなっていました。その頃の私は、日曜には礼拝に出席していても、家での生活は前とちっとも変わらない状態でした。主人と喧嘩をしてわめきちらしたり、物を投げたりしていました。また、夜は遊びに出たり、ある時は家出をしたり、牧師先生に色々と心配をかけ、今思うと、申し訳ない気持ちで一杯です。主人の方は、今まで以上にお酒を飲むようになりました。

 ある日、彼が海外から帰ってきた時、彼は真剣な顔をして、「もうこのような結婚生活には耐えられないので、離婚して欲しい。」と言いました。その時、まるで、真っ暗な穴の中に落ち込むような思いになりました。二度目の離婚など私には耐えられないことです。それで、牧師先生、教会の姉妹たちにお祈りをお願いしました。その時、私は初めて、神様の前に真剣な祈りをしました。今まで恐いもの知らずの私でしたが、この時、自分の弱さをはっきり示されました。それまでは、すべての原因が私にあることに気がついていませんでした。そして、相手のことばかり責めていました。祈っているうちに、今までの自分の罪や傲慢さを次から次へと示され、涙が止まりませんでした。その時、なぜ、イエス様があの十字架の上で苦しまなければならなかったのかが、はっきり分かったのです。それは、私の罪のためでした。イエス様は単に二千年前にいた一人の人物ではなく、その前から、永遠の先からおいでになったお方、十字架の死から三日目によみがえって、今も、永遠までも生きておられる神です。このイエス様は、すべての時代の、すべての国の人を知り、愛し、その罪を背負い死なれたのです。イエス様は私をも愛してくださり、私を罪から救うため命を捨ててくださったのです。私は、神様に罪を悔い改め、イエス様を私の救い主として心に受け入れ、主人や子供に許しをこいました。

 それからしばらくして、主人は、「誰かが自分の心の内に、おまえのしようとしていることは正しくない、もう一度やり直すようにと語りかけた。」と話してくれました。今思うと、聖霊様が語りかけてくださったのです。神様は私の人生ばかりでなく、主人も変えてくださいました。神様は彼を、主を愛する人に変えてくださいました。息子はチャーチ・キャンプで主を受け入れ、一九八七年のクリスマスにバプテスマを受けました。今はサンデースクールで奉仕をさせていただいております。娘、コニーも今、ミシガン州で二人の子供達と礼拝を守っています。私たちの家には、酒のかわりに聖書が、醜い喧嘩のかわりに祈りがあります。私たちは、神様のあわれみにより、四月に結婚三十二周年を迎えます。

 その間、二度の癌の手術、背中の手術、その他、大きな手術を合わせて五回も受けました。十年前の直腸癌の手術の折、お腹に人工肛門を付ける手術をしました。色々とハプニングが起きて、大変な事もありますが、身体の一部として、大切な物となっています。さらに、手術の時、膀胱の神経の一部が傷つき、今も尿のコントロールと排泄に不自由をきたし、毎回キャスターという小さい管のお世話になっていますが、そのお陰で日常生活が普通に出来感謝しています。また、数年来椎間板ヘルニアのため、腰に激痛があります。でもそのような時、イエス様の事を思います。十字架に両手両足をくぎで打たれたイエス様のお苦しみはいかほどだったか、想像さえ出来ません。それに比べ、この痛みなど物の数ではありません。痛みを和らげる薬もあります。これらすべての事を、神様のあわれみにより、あえてお許しになったこととして、感謝して受け取っています。このことを通し、同じようなところを通っている方々を励ますことが出来、またイエス様のご愛をおあかし出来たらと願っています。さらに、神様は一つ一つの試練を通して私をどんなに愛してくださっているかを示してくださいました。今、生かされていることに本当に感謝しています。ふりかえってみると、すべての事で神様の栄光を賛美することができます。

 最後に聖書のみことばを引用し、私の証しを終わらせていただきます。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネの福音書三章十六節)

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『遺 言』

沖久晶子

 私は一九六六年にアメリカ人と結婚し、夫の家族のいるサンディエゴに渡米して来ました。夫は海兵隊に属し、日本に駐在で来て間もなく、友人の紹介で知り合い家族の反対を押しきって結婚しました。夫はアメリカに来てすぐ除隊し、ジーアイビルを利用して学校に行き、服役する前に終了していなかった高卒の資格を取り、大学に進みました。私も英語の力を身につける為に一緒に大学へ行きました。長男が生まれてから、夫は保険のセールスをするかたわら大学の学びを続けました。ある時、夫は自分の受け持つ地域を回って、十才を頭に四人の小さな子供のいる家庭を訪れました。その家の働き盛りの主人には生命保険がありませんでした。保険のセールスをしている立場から、もしこの主人になにかあったら小さな子供達と奥さんは路頭に迷ってしまうと思い、熱心に加入を勧めた所、経済的に余裕がないという事でした。夫は「では最初の掛け金は私が払ってあげますから…もし何かあった場合あなたの奥さんと子供達が困らないように」と言って加入承諾を得ました。この事がきっかけでこの家族と親しい間になり、この地域に行くとこの家に立ち寄ってはコーヒーをいただいたり、食事をすすめられたりする様になりました。この家族はクリスチャンで週に一度この家庭でバイブルスタデーが持たれていました。彼も勧められて加わるようになりました。彼は小さい時熱心なクリスチャンであったおばあさんの影響で教会に行っていた事もあって、この集まりを喜び、熱心に神様を求めるようになりました。そこにはリタイアーしてから神学校で学んでいるという年配の神学生もいて、彼はこの場で以前持っていて解決されていなかった疑問を、一つ一つ心の整理をするように持ち出し、納得できる答を受けました。その後受洗し、熱心にその人達の集まる教会での礼拝、祈祷会にと出席するようになりました。私にも一緒に行こうと誘うようになりましたが、日本にいた頃から、宗教は弱い人が心の支えとするものと決めつけていましたので、私に必要はないと断りました。それでも諦めず誘うので、一度位ならと思って水曜日の祈祷会に出席しました。そこで語られたメッセージは少しも解らなかったばかりか、祈祷の座がひらかれた時には涙を流して前に出る人達や呻くように祈っている人達を見て、異常な光景にうつり、違和感からここは私の居る場所ではないと心に決め、その後誘われても二度と一緒に行く事はありませんでした。二年も過ぎた頃には私が一緒に行かなかったせいか主人も自然と教会から遠のいてしまいました。

 一九七一年、二番目の子供が与えられようとしていました。五月に入って主人は風邪の症状が良くならないので、お医者様に行き血液検査の結果、白血球の数が異常で間違いではないかとの疑いから、二度検査で確かめたところ白血病と診断され、その日のうちに入院させられました。病床にあって神様との隔たりが回復され、以前の教会の人達との交わりも回復し、皆さんがいやされる様お祈りして下さいました。入院中教会の方々の祈りの中に神様の奇跡とか、考えられない事も経験させていただきましたが、六月に入って病状が悪化し天に召されました。私は二度目の子供の臨月で、病院から危篤の知らせで友人とかけつけた時には陣痛が始まり、今私が勤めているグロスモント病院に行かなければならなくなり、これが地上の最後の別れとなりました。主人が入院中まだ言葉がはっきりしていた頃、私に子供達を連れて教会に行くように、又そこで献児式をしていただく様言われた事は、あたかも私の心に遺言のようにひびき、後主人の行っていた教会に出席するようになりました。教会の人達は私達親子に暖かい愛と祈りをもってサポートして下さいました。ある御夫妻は遠い私の住まいに毎日来て下さり聖書をひもといて下さいました。聖書の事はよくわかりませんでしたが教会の人達の祈りと愛に心がとかされて、こんな素晴らしい交わりの中にいつまでも居たい、又親切にして下さる方々に答えたいという思いから洗礼を受けメンバーになりたいと牧師に申し出ました。

 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(第二コリント五章十七節)受洗の時は聖霊による新生の大きな喜びに満たされ、わきあがる喜びを自分だけに持っている事が出来ず、まわりの友達に電話で救われた喜びを伝えました。中には夫に先立たれ気がおかしくなったのではないかと誤解した人もありました。これが私の信仰のスタートだったのですが、今振り返ると信仰の基礎がしっかりした決心ではありませんでしたが、この様な私の頼りない信仰でも神様の方がしっかりと私をとらえて下さり、愛の訓練をして下さった事を思い感謝致します。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。」(ヘブル十二章六、七節) 

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神様、なぜですか

ピータース道子

 「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである。」(エペソ二章四〜五節)

 表面からは見えなくても、人は誰でも心の奥に何らかの重荷を持って生きていると思います。私の人生の中で最もいまわしい思い出、それは子どもの頃の戦争体験で、原子爆弾による死の恐怖であり、そこから来る怒り、悲しみ、絶望でした。しかし、後に教会に出席するようになり、そこで、イエス・キリストこそ、死の恐怖につながる罪の解決であること、十字架は、神様が送ってくださった神のひとり子、イエス・キリストが私の罪のために身代わりとなってくださったところであり、永遠の命を約束してくださるイエス・キリストを信じて生きる時、怒りも、悲しみも、絶望も、喜びと感謝、希望に変わることを教えられました。

 私は二八年前にこの教会にまいりました。日本語でメッセージが聞ける、こんな素晴らしい福音的な教会が、このアメリカのサンディエゴに存在していたことに大変驚き、見失っていたわが家にやっとたどりついたような感動をしました。そのころは、この教会の創立者の、一世の方々が御健在で、始めて出席した私をほんとうに手を広げるようにして迎えてくださいました。今は中年になっておられる兄弟姉妹方も、現在の青年会の皆さんに負けないくらい若くてはつらつとしておられ、私を暖かく歓迎してくださいました。

 私は牧師の家庭に生まれました。父は大分県のメソジスト教会で牧師をしておりました。私が小学校二年生の頃、第二次世界大戦が始まり、戦局が厳しくなっていく中でしたが、両親の愛に囲まれ、周囲の善意に囲まれて、兄、弟と共に聖書のお話を聞きながら、何も疑うこともなく全能の神様を信じて育ちました。

 戦況がますます悪化してきて、牧会不能となった父は、長崎の浦上にあったミッション・スクールの教授として赴任しました。浦上に原子爆弾が投下され、中心地にいた父は即死してしまいました。子どもたちを可愛がってくれた父でしたが、ひとりきりの女の子だった私は、特に父に可愛がられました。明治生まれの古武士のような父で、私は父が大好きでした。そんな父の無残な死は十二歳の私にとって大変なショックでした。当時疎開していた私たちは父を探しに、瓦礫の中を歩いていきました。まわりは、まだブスブスと燃え続け、何とも言えない異様な臭気が立ち込めていました。私たちがついこの前まで住んでいた町は、見渡すかぎりの無残な瓦礫と変わりはて、焼けこげた丸太のような死体がころがっていました。大きな馬の死体の口から汚物が飛び出していました。赤茶色になった浦上川には、溺れ死んだ人たちの死体がいくつも、いくつも浮いていました。信じられないような、悪夢のような光景でした。私は、怒りと悲しみで、心の中で神様に向かって叫びました。「神様、これは一体、どういうことなのですか。神様は本当にいるのですか。神様なんかいない。いるわけがない。」

 その後の母は、四人の子どもを抱え、生活苦との戦いが始まりました。父が希望していたミッション・スクールに無事入学できたのに、経済上続けられず、他の学校に転校しなければならなかった時の残念さは、今でも忘れられません。戦後の日本中の人たちが苦しんだ時代でした。私たちは教会生活から離れ、私は神様から遠ざかってしまいました。

 進駐軍のベースで働き、主人と出会い、結婚して一九五七年に渡米いたしました。アメリカでの生活に希望を抱いてやってきましたが、ベトナム戦争が起こり、主人は海上勤務が多く、私はいつも孤独でした。人生には何度か神様に近づくチャンスが訪れると言われていますが、このころ、私は、今まで背を向けていた神様に祈るようになりました。しかし、その祈りは、家内安全、無病息災を祈るだけの、自己中心的な祈りでした。その頃盛んだった、ある新興宗教にあやうく入りかかり、嫌な思いをいたしましたが、神様の御手が伸ばされ、守られていたのだと思います。その後、サンディエゴ教会の姉妹方と出会い、教会の存在を知ったのです。

 その頃の私は、矛盾した世の中への怒りと、不平、不満、不安でいっぱいで、今にもはちきれそうな胸の内を抱えて、この教会に導かれてまいりました。子どもの頃聞いていた父なる神と、御子イエス・キリストと十字架が、クイズが解け、霧が晴れていくようにはっきりと分かりました。キリストが流された血潮は、実は私のためであり、私こそが罪人なのだと分かり、今までの不信仰と罪を神様の前に悔い改め、そしてバプテスマを受けました。しかし、私の心には、どこに持って行きようのない、だれも答えてくれそうもない疑問が重いしこりのように残っていました。それは、なぜ神様は、あのような苦難の時代にもかかわらず献身していた父をまるで罰するかのような方法で命を取られたのだろうか、という疑問でした。私は父の最期を想像しては苦しみました。生きたままで焼かれて、どんなに苦しかっただろうか、息をひきとる時は何を思っていたのだろうか等、永久に解けない疑問のように思えて、父が可哀相でたまりませんでした。

 私のこの重荷は、ある一世の方のあかしを通し、また、ヨハネの黙示録七章のお言葉を通して、聖霊の助けにより、突然のように神様からの平安を与えられ、取り除かれたのです。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう。」(ヨハネの黙示録七章十四〜十七節)神様は、より頼んでいく者を捨てられることはありません。父の最期も責任を持って守ってくださったことでしょう。魂も、肉体の苦痛も、死に勝利されたイエス様に支えられて、父は死の谷を平安のうちに越えていったと確信することができました。また、自己憐憫と傲慢な思いにとらわれていた私を、「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。』それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」(Uコリント十二章九節)との御言葉によって解放してくださいました。

 十二年前に腸ガンの宣告を受け、手術を受けましたが、神様のあわれみにより、未だに生かされているのは、神様が私に使命を与えていてくださるからだと、厳粛な思いになります。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ三章十六節)とあるように、ひとりでも多くの方が、罪と死に打ち勝たれたイエス・キリストを信じて神様からのギフト、永遠の命を受け、平安を得、キリストと共に、勝利を得られるため、神様のお役に立ちたいと願っています。

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振り返って思うこと

スコット恵子

 人生とは不思議なもので、この私がアメリカ人と結婚して外国に住むなど誰が予想出来たでしようか。そしてこれらは全て神様のご計画であったことなど、誰が知っていたのでしようか。私は厳格な父とやさしい母のもとに兄一人と七人姉妹の三女として生まれました。その時代にも珍しい大家族でした。たまたま近くに公園があったので、そこを自分たちの裏庭のごとく活用しました。家の中では父以外、家族そろって音楽会をしたり、カラオケ大会をしてそれなりに楽しくしていました。田舎の自然の中で、海や山の幸に恵まれ、のびのびと成長することが出来ましたが、全てが楽しいだけの家族ではありませんでした。必要以上に厳格な父は、道理が通っているいないにかかわらず、家族全員を彼の意見に服従させていました。そのような父に、兄や姉妹達の誰もが自然に近づかなくなってしまい、必要に応じて父と話すときはいつも私がみんなの代表をさせられました。その理由でしょうか、兄や姉妹達の中で私は父から一番可愛いがられていました。そのような関白な父をもって大変だったのは母でした。でも母は努力家で強い人でしたので、弱音を吐くことなく毎日の家事を元気にこなしていました。私達のしつけや教育に対しては厳しかったのですが、その他はとてもやさしい母でした。母は毎晩全ての家事を終えると、新聞や雑誌の興味ある記事を切り抜きスクラップブックを作ったり、また日記も何年もつけたりしていました。町内会のドッジボール大会で活躍したり、またいち早く免許をとっては流行のモペット(小型のオートバイ)に乗ったりもしていました。多分それは唯一の母のストレス解消法だったのでしょう。いつもそのような努力家で勉強家で明るい母の姿をみては尊敬したものでした。でも私はこの厳しい父の居る家から出て自由になりたく、親の大反対を押し切って大学進学を止め、東京に就職しました。あの父に反抗したのは初めてでした。大げさですが、あの時は死ぬ覚悟で、怖い父に対して自分の意見を出したのでした。人間は死ぬ覚悟でしたらなんでも出来るって本当ですね。

 田舎から東京にでてきた私の目には、聞くもの見るもの全てが真新しく、全てが華やかに映りました。私の生活は百八十度変わりました。職場の先輩に連れられて初めてディスコにも行きました。そしてその時に今のクリスチャンの主人と会ったのです。今考えると滑稽ですが、お互いに辞書を片手に持ちながらのデートが始まりました。私達は真面目にお互いを理解しようと、一生懸命に努力をしました。それから二年後,私達は結婚してそのままアメリカに移って来ました。そのすぐ数ヶ月後に娘、エイドリアンヌが生まれました。もちろん当然のごとく、私の家族は大反対でした。父からは勘当をも受け、それ以来残念ながら今日に至るまで父には会ってはいません。若くまだ何も知らなかった私は、自分の周りの全てが自分の意思なく進んでいて、私はただ単にそのレールの上を動かされているような気持ちでした。アメリカでの生活に憧れていたのではなく、国際結婚を夢みていたのではなく、ただ気がついてみるとこのサンディエゴに住んでいたのです。毎日、日本の家族を離れた寂しさと悲しさで泣いていました。主人とも問題だらけで、喧嘩の続く毎日でした。彼は決して悪い人ではなかったのですが、私自身が幸せではなかった為に、彼のすること言うこと全てが気にいらず、彼の良さが見えなかったのです。離婚の話も何回も持ち上がりましたし、別居をした時もありました。ただ一つの救いは何も知らない小さな娘だけでした。私の人生はこれで終わるのだろうか、他に自分を待っている新しい人生があるのではないかと思うたびに、辛く後悔ばかりしていました。

 その苦しい中で私は同じアパートに住んでいました一人の日本人女性に会ったのでした。彼女に導かれ、このサンディエゴ教会に初めて足を踏み入れたのです。今考えて見ると、神様は彼女を私の為に準備されていたのだと思います。もちろん最初は何も頭に残らずに家に帰りましたが、彼女のサポートと祈りにより、続けて教会に通うようになりました。そうしているうちに、徐々に神様のことをもっと知りたいと思うようになりました。多くの集会や祈りの会に参加するようになり、大川牧師から洗礼を授かりました。

 その頃に私達には息子、ワオーレンも与えられました。でも私の信仰は確かなものではなかったのです。ちょうど時がたてば熱が冷めていくように自然に教会から離れて行きました。でも神様は私を見捨てませんでした。このたびは娘を通して神様は私を再び教会に導いてくださり、現在に至っています。今回は本物の信仰を持ちたいと願っています。

 私は今自分が歩んできた過去を振り返っています。あの何回もあった人生の分岐点で、私の意思ではなく人生が動いていたのは、神様が私の手をしっかり握りそして引っ張っていて下さったからだと確信しています。あの大家族の中で生まれた事、東京に出てきた事、親の大反対を押し切って国際結婚をした事、サンディエゴの地に住んでいる事、この教会に導かれた事、洗礼を受けた事など全ては神様のご計画だったのです。このような私をも愛して下さっている神様は、ちゃんと全てを備えていて下さったのです。良きクリスチャンの主人とめぐり合えた事や、素晴らしい二人の子供を授かった事は、神様からの最高のギフトなのです。そう思うことにより過去を後悔するのではなく、むしろ感謝することができるようになりました。最近はもちろん意見の違いで喧嘩は多少ありますが、本当に幸せに暮らしています。 私の人生に今後どのようなことが待ち受けているのか解りませんが、全ては主の御手の中にあるという事を確信し感謝して生きていきたいと思っています。

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ケアしてくださる神

瀬川ベン

 私は、サンディエゴで生まれ、サンディエゴ教会の創設者のひとりの子どもですので、サンディエゴ教会のことについては、たくさんの思い出があります。私が最初に教会に来たのは、一九三〇年代、私がまだ小学生の時でした。私の両親は、教会がウェブスターにあった頃、私をサンデースクールに通わせました。それからしばらくして私は、土曜日に教会で開いていた日本語学校にも通うようになりました。サンデースクールも、日本語学校も教会の隣にあった牧師館で行われていました。そのころ、サンデースクールや日本語学校に通っていた人たちの多くが今も教会に通っています。

 一九四八年、ハイスクールを卒業した後、私は空軍に入りました。私が空軍にいた一九四九年に、父が亡くなりました。同じ年、私は、八尋ジョージ先生からバプテスマを受けました。それ以来、私はづっとこの教会に通っています。

 空軍の四年間は、とても孤独な日々でした。聖書を読み、教会に行くことは、私を神に近づけてくれました。神は、私の必要にいつもすぐに答えてくださいました。神はおもいやりのある神であり、決して私を見捨てませんでした。空軍の四年間(沖縄二年、ニューヨーク二年)を終え、ミッションバレーにある家族で経営していた農園に戻ってきました。私は、一番上の兄、ジョージと母と一緒に農園で働きました。

 一九五六年、私は、田崎キャシーと結婚しました。神は私たちを祝福して四人の子どもを授けてくださいました。子どもたちはみな成長して、それぞれの道を歩んでいます。三十七年の結婚生活の後、神は、キャシーを天に召されました。それは、私の生涯でもっとも暗い時でした。しかし、この経験と、神を信じる信仰によって、私は、もっと強くなることができたと思います。神を信じる信仰によって、私はこの困難な時を通りぬけることができました。

 妻をなくした悲しみからいやされた後、私は松本グレイスと再婚しました。一九九五年に、私の息子エリックがサンロレンゾ教会の副牧師になり、エリックが私たちの結婚式を司式してくれました。今、グレイスと私は、共に、リタイヤメント後の生活を楽しんでいます。多くの孫たちと共に時を過ごすのは、ほんとうに喜びです。子どもたちは、いつも私にEメールを送ってくれます。牧師であるエリックのメッセージは、私にとって貴重なものです。彼は、いつも私に、神の偉大さを、思い起こさせてくれます。

 私は、ずっとこの教会で過してきましたので、いままでご奉仕してくださった牧師先生方のほとんどと親しい関係を持つことができました。私が教会のことを思う時は、いつも先生方のことを思います。一九六〇年代のはじめ、常石アート先生が私たちの牧師だったときのことを思い起こしています。常石先生はフットボールが好きでしたので、先生と私は、バルボア・スタジアムにチャージャーズの試合を、良く見に行きました。試合のある日の日曜日のメッセージは、要点をついた簡潔なものでした。先生の奥様のサリーは私たちのためにランチを用意してくれ、礼拝を終えて試合が始まるまでに昼食を済ませることができました。

 常石先生の後、戸田ジム先生がいらっしゃいました。戸田先生が奉仕してくださった期間は、ちょうど私たちの子どもが成長していく期間でもありました。長男のマイクが結婚することになり、結婚式は、マイクの妻の家族がいるカンサス州で行われることになりました。結婚式の会場はカソリック教会でしたが、マイクは、私たちの家族の牧師にかかわってもらいたいと強く願っていました。戸田先生と奥様のアリスは、カンサス州の真中の町までの長い旅行をいとわず、結婚式をしてくださいました。マイクとその妻がどんなにか感謝したかを私は覚えています。

 私の一番下の娘、デビーが児玉ケンと結婚した時は、関口五十六先生が、ダウンタウンの第一長老教会で結婚式をしてくださいました。瀬川家も児玉家もそれぞれたくさんの親族がいましたので、私たちの教会ですることができなかったのです。私たちの教会の先生方が、このように状況に応じて適切なことをしてくださったことに感謝しています。

 関口先生が急に亡くなられて、仲村ブライアン先生が私たちの教会の牧師になりました。先生がはじめてサンディエゴにいらっしゃったのは、十数年も前のことで、子どもさん達はまだ小さかった時でした。キャシーと私は、仲村先生たちがはやく教会に慣れるようにと、私たちの家に招きました。最初に、わが家に来ていただいたのが、クリスマス・イヴのパーティでした。それ以来、毎年、ご家族で来ていただいているのをうれしく思っております。

 このように牧師先生方とお交わりできたのは、実に、祝福でした。こうしたことを書いていますと、幾たびも幾たびも、神が私を祝福してくださったことを思い起こします。神は数えきれないものを与えてくださっていますが、中でも最も素晴らしいものは、命です。神は私に豊かな命を与えてくださいました。神は私たちに祝福を与えるばかりでなく、それを取り除かれることもあります。主が与え、主が取られるのです。ですから、私は一瞬一瞬が貴重であり、神が私に、神のお与えくださった命を十分に生きるように願っておられるということを知っています。神は私に、信仰があらゆるものに勝利を得させるのだということを教え続けておられます。神は恵み深いお方です。私は神の愛を大切に心にいだいています。

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我が恵み

上田ケネス

 過去七十八年を越える私の生涯を振り返った時、神から多くの恵みを賜ったことを思わされます。

 最も顕著で忘れられない事は第二次世界大戦の後に起こった事です。陸軍から退役した時、私は両親の為にサンディエゴに来なくてはなりませんでした。サンディエゴは当時国中で最も失業率の高い都市の一つでした。私はロスアンジェルスに移る事を真剣に考えていました。私は神の導きを祈りました。二、三日後、サンディエゴの新聞で郵便局が戦後初の採用試験をするという記事を読みました。この神の恵みの郵便局勤めは三十二年間以上続きました。我々の生涯には多くの浮き沈みがありましたが神は常に最良の道を備えて下さいました。

 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。」(箴言三章五節)

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